クナイフで自動車へのりこみ三人の大の男に手をあげさせて二百万円強奪した。どうも敗戦後の大の男はシドロモドロで体をなしていない。ジャックナイフにサッと三人手をあげるとは水際立った敗走ぶりであるが、それにもまして、チンピラ小説に暗殺されたトマさんは、アプレゲールの最尖端、あまりに神韻ヒョウビョウとして、その影だにも捉えがたい。
 私も探偵小説というものを書いて、ずいぶん自分に都合のよい兇器や殺し方を発明したが、ネバア・ハップンの小説が兇器になるとは思わなかった。探偵小説の読者は、この兇器では、とても納得してくれそうもない。
「トマサンの一生」はピンからキリまで、痛快に自分勝手で故障だらけ、かほど痛快に目のとどかない小説というのは珍しい。
 しかし、元来、傑作というものは、目がとどかない作品なのである。かゆいところへみんな手がとどくというのは、実生活には大そう便利であろうが、芸術の傑作にはならない。人間は、男女いずれを問わず、惚れると目がとどかなくなる。そして人間の一生のうちで、最も香気の度が高いのは、そういうバカな状態の時なのである。そして芸術というものは、人間が落付きはらって、かゆいところへマンベンなく手がとどくような快適な実生活に実用品として役立つものではなく、目のとどかない不具の半面に夢や慰めを与えてくれる魔術のオモチャにすぎないものだ。
 近松やシェクスピア作品など、実にどうも、悲しく目のとどかない作品だ。人を殺す必要もなく、死ぬ必要もない。ナニ、惚れる必要もありはせぬ。身の上相談の先生なら、そんなバカなことしてはいけません、と云って大そう叱りつけるに相違ない。至らざること甚しく、目のとどかざること、言語道断ではある。けれども「トマサンの一生」とはすこし、ちごう。すこし。実に、すこし。
 近松もシェクスピアも、作中の主人公に絶大の同情をもっている。それは「トマサンの一生」と同じことだ。けれども、絶大の同情をよせる根源において、すこし、ちごう。作者と作中人物が一心同体の親友であることに変りはないが、トマサンと作者が現世の親友であるによってその作中に於ても親友であるのとはちがって、全人間への愛情と、全人間への肯定によって、作中に於て一心同体の親友なのである。トマさんの現世の友情によって、トマサンのカタキが作中のカタキであるようなことは、あり得ない。文学上の大傑作は「
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