どって歩き、茫然と休み、わけのわからぬことをしていたかも知れない。
 そして、何とか旅館で休んだのは、あるいは彼であったかも知れない。女将の説によれば、その紳士は、女はいるか? といって、ちょッと助平な笑い方をしたということであるが、それが下山氏であったとしても、彼がそのように助平なことを云ったということや、そんな考えを起したということは決して不自然ではないのである。
 彼が一目会いたいと思ったタイピストと彼とは、プラトニックなものであったらしく、彼はただ彼女の誠意を愛し、又、娘のように可愛く思っていた程度であったのが事実であろう。
 しかし、どんなにプラトニックでも、男女のことは、底に肉慾的な願望が必ず潜在しているものだと断定してよろしいだろう。
 そして、その潜在的な願望は、綱のきれた風船の状態では、かなり露骨に表面へ浮びでてくる。
 彼が彼女の家の近くまで行きながら、戸口まで近づき得なかった理由の一つは、まだ彼に多少の抑制力が残っていて、うっかりすると、彼女に肉慾的な申出をするらしい自分を警戒したからではないかと思う。
 もし彼女に会えば、彼は実際、オレはお前を愛していた、なぞと言いかねなかった。たぶん、言ったであろう。
 むろん、彼は彼女をそのようには愛していないのだ。決して愛人として愛してはいない。抑制力によって、そうであったわけではなく、まったく自分の娘のように可愛がった、という愛し方をふさわしいものと見るべきであろう。しかし、そのような愛情にしろ、底に肉慾が潜在していることは間違いはない。そして、綱のきれた風船状態になると、それが露骨に表面へでる。抑圧の下では隅ッこのとるにも足らぬ浮気心にすぎないものが、今や彼の意志の全部ぐらいにひろがる。すくなくとも、彼が彼女に一目会いたいと思いたった時には、ただ一目会いたいと思う程度であったが、やがて彼の意志の全部は、彼女との肉慾の遂行に塗りかえられていたのではないかと思われる。
 だから、彼は、彼女に会うや、オレはお前を愛していた、あるいは、一しょに死のう、そんなことを、いきなり言ってしまう危険をはげしく感じはじめていた。その反面には、彼女との肉慾の遂行を目指すめざましい意志が、心にひろがる一方である。
 こうして彼は、彼女の家へ近づく事ができなくなったばかりでなく、肉慾という想念に疲れ果ててしまった。そして娘を訪ねることを思いとどまって、旅館で休む。まだしも、その時は(午後五六時ごろまでは)相当な抑制力が残っていたからであったろう。
 旅館で休むと、娘との肉慾の遂行という願望が、ヒョイと別の女、ただ肉慾の遂行という意慾にかわる。多少の自制心はあるのだ。女将に、女はいないか、とニヤニヤ言いかけてみて、しかし、それ以上にたって言う勇気もない。
 むしろ、旅館の戸口をくぐる前に、娘との肉慾の遂行をただの肉慾の遂行におきかえて、それをめざして、旅館をくぐったのではないかと思う。
 私自身の経験をヒキアイにだすと、お前のような助平は例外だと言われるかも知れないが、綱のきれた風船状態までくれば、もう人間は誰だって同じことだ。
 私はこの状態になると、あれかれの女友達を思ったあげく、最後には、パンパン宿をくぐった。実際の行動として行いうるのは最後にそれだけであった。この状態になると、きまったようにそうだった。
 彼は私のように気軽にパンパン宿をくぐる経験を持たないから、もっと余計なカラめぐりを重ねたに相違ない。
 私はそのとき、フンドシ一つで、見る女、見る女を片ッパシから口説いて、パンパン宿を巡礼しつづけていた。そして、私が意志しつつある行為自体の狂気の沙汰をのぞけば、そのとき私と会って別の話(たとえば職業上の話や商談など)を交した人は、私をあたり前の私、いつもと変らぬ私と思ったに相違ない。酒の酔っぱらいが全的に酔っているのにくらべると、こんな時のキチガイはその意志しつつあることの狂的なのを除いて、普通の場合と変りなく見えることが多い。もっとも、もう少し度がひどくなると、そうでもなくなるかも知れない。
 旅館をでて、時間がたつにつれ、彼の絶望感は益々ひどくなったであろう。夜がきた。GHQとの約束はもうとり返しがつかないし(GHQというような一つの絶対な権力をもつものの圧力が、このとき、彼の絶望感にどれぐらい大きな圧力でのしかかったか想像を絶するであろう)彼の職場ではどのようなことが起り、クビ切りどころか、彼自身がクビを切られているかも知れず、現に首脳部の人たちが彼のクビ切りを相談しているかも知れない。そのような幻想が起り、彼の関節から力がぬけ、ぬかるみへはまッた足をひッこぬく力も失せて、ぬかるみを出るまで這って歩かねばならないような状態がつづいたかも知れない。
 どうしてよいか分らない
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