う。素質は誰にでもある筈だ。特に発し易い型と、そうでない型はあるかも知れないが。そして、マサツの在り方は各人各様、また、無限であろう。
下山総裁は催眠薬を用いていたというから、病状の悪化を自覚する程度であったに相違なく、彼は意志によって、抑圧につとめていたのであろうと思う。(彼が鬱病の病歴があったことは、雑誌に発表された調書にも明記されている)ストがあったり、三国人に睾丸を蹴られたり、彼にショックや混乱を与えることが続出しており、その相当な抑制力で、やっと防ぎとめているような状態であったようだ。
こういう状態の時には、別にさしたるショックや、見るべき動機がなくとも、綱のきれた風船のように、フラフラとさまよいだすことがある。
そのときには、ただフラフラ、つないだ綱がとけた程度にただフッと抵抗を失っただけで、自分でどッちへ行って何をしようというような明確なものはない。又、明確な意志や目的があって抵抗を解いたものでもない。
ままよ、まさかの時は死ねばすむことさ、ぐらいの気持はあっても、自殺しようという意志はほとんどなく、むしろ、なんとかして生きる力をもとめ、強く生きなければ、もっと意力を恢復しなければ、ということを考えているものだ。
私の経験でいうと、こうして綱の切れた風船状態の時には、親しい人に会いたくなるのだ。いったいにメランコリイの状態には、親しい人には会いたいが、親しくない人には会いたくなくなるものだ。親しいといって一様でなく、又、マサツと関係もあって、その親しさには相当の個人差があるけれども、ハッキリ云えることは、一番親しいものではないということだ。一番親しいものは病気の原因の中にいつも含まれているのだから。だから、一番親しい女房や子供は病因の一つに含まれており、彼らの力だけでは病人をひきとめることはできない。そして、もっと別な親しい要素が貪慾に要求され、渇望される。しかし、その親しさは女房子供以上に親しいことを要しない。又、そのような親しさは有り得ないのである。つまり、やや無関心に類する親しさ、気楽な親しさ、である。いわば、息ぬきなのだ。
下山氏の自殺した現場の近い辺りに、彼が可愛がっていたタイピストが住んでいたという。このタイピストは下山氏が三国人に睾丸を蹴られた時、たった一人助けにきて介抱したインネンをもち、それ以来、彼に可愛がられるようになった。彼はそのタイピストの結婚の贈り物のことなど心配していたということである。
下山氏の綱がきれてフラフラさまよいだした時、この娘のところへ一目会いに行こうと思うのは、彼の精神状態の場合には、甚しく自然である。何かに、すがりたい。何か、親しいものに会いたいのだ。彼が何より怖れているのは孤独なのである。この孤独感の切なさは、病気になってみないと見当がつかないぐらい、切ないものだ。四十度の熱病に苦しむとき、この孤独感に似たものに襲われることを経験したことがあった。
彼と娘との間に恋愛関係などなかったに相違なく、又、そのような関係がある必要はないのである。彼のメランコリイは職域に於けるカットウや絶望感などが主因となっていたようであるが、そのような彼に風船の綱がきれたとき、最も強く思いだしたのがこの娘であるというのは、完璧なまで当然すぎるというキライがあるほどだ。
この娘は、今はタイピストをやめて、結婚しようとしており、一時は下山家の家族の一員のように親しかったが、今は離れた存在である。昔親しくて、今はめったに顔を合わさぬ存在であるということ、又、結婚の贈り物にあれかれ思い患うほど心をかけているということ、いわば、離れていても彼の心に棲んでいるということ、彼がこの時思いだすには、まことに至当の理由をもっている。又、娘と親しくなった理由は、三国人に睾丸を蹴られたとき、他の全員は逃げたのに、彼女一人が助けにかけつけてくれたということであった。彼が綱のきれた風船となって漠然と自分の心をさがしたとき、この娘に一目会いたい、そして、それが、何か力のタシになるように激しく渇望されたのは、あんまり適切な人間がいすぎたものだというぐらい、うまく出来すぎているのである。
しかし、人間の心は一筋縄ではいかないものだ。娘に会いたいと思ってその方面の電車にのり、その家に近いところまで行っても、それだけが彼の心の全部ではない。
彼はその日GHQの人たちと会う約束であったというが、その約束の時間はもうすぎている。そのことに思いつくと居たたまらぬ苦痛を覚えたであろうし、又、唐突に家族のことや、いろいろの職務のことや、それらはすべてそれらを思いだすたびに、彼を混乱させ、どうしてよいか分らなくさせたに相違ない。
彼は娘の家の近くまで行ったが、それ以上近づくことができなくて、ある距離をおいて、思いま
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