どって歩き、茫然と休み、わけのわからぬことをしていたかも知れない。
 そして、何とか旅館で休んだのは、あるいは彼であったかも知れない。女将の説によれば、その紳士は、女はいるか? といって、ちょッと助平な笑い方をしたということであるが、それが下山氏であったとしても、彼がそのように助平なことを云ったということや、そんな考えを起したということは決して不自然ではないのである。
 彼が一目会いたいと思ったタイピストと彼とは、プラトニックなものであったらしく、彼はただ彼女の誠意を愛し、又、娘のように可愛く思っていた程度であったのが事実であろう。
 しかし、どんなにプラトニックでも、男女のことは、底に肉慾的な願望が必ず潜在しているものだと断定してよろしいだろう。
 そして、その潜在的な願望は、綱のきれた風船の状態では、かなり露骨に表面へ浮びでてくる。
 彼が彼女の家の近くまで行きながら、戸口まで近づき得なかった理由の一つは、まだ彼に多少の抑制力が残っていて、うっかりすると、彼女に肉慾的な申出をするらしい自分を警戒したからではないかと思う。
 もし彼女に会えば、彼は実際、オレはお前を愛していた、なぞと言いかねなかった。たぶん、言ったであろう。
 むろん、彼は彼女をそのようには愛していないのだ。決して愛人として愛してはいない。抑制力によって、そうであったわけではなく、まったく自分の娘のように可愛がった、という愛し方をふさわしいものと見るべきであろう。しかし、そのような愛情にしろ、底に肉慾が潜在していることは間違いはない。そして、綱のきれた風船状態になると、それが露骨に表面へでる。抑圧の下では隅ッこのとるにも足らぬ浮気心にすぎないものが、今や彼の意志の全部ぐらいにひろがる。すくなくとも、彼が彼女に一目会いたいと思いたった時には、ただ一目会いたいと思う程度であったが、やがて彼の意志の全部は、彼女との肉慾の遂行に塗りかえられていたのではないかと思われる。
 だから、彼は、彼女に会うや、オレはお前を愛していた、あるいは、一しょに死のう、そんなことを、いきなり言ってしまう危険をはげしく感じはじめていた。その反面には、彼女との肉慾の遂行を目指すめざましい意志が、心にひろがる一方である。
 こうして彼は、彼女の家へ近づく事ができなくなったばかりでなく、肉慾という想念に疲れ果ててしまった。そして娘を
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