た。彼はそのタイピストの結婚の贈り物のことなど心配していたということである。
下山氏の綱がきれてフラフラさまよいだした時、この娘のところへ一目会いに行こうと思うのは、彼の精神状態の場合には、甚しく自然である。何かに、すがりたい。何か、親しいものに会いたいのだ。彼が何より怖れているのは孤独なのである。この孤独感の切なさは、病気になってみないと見当がつかないぐらい、切ないものだ。四十度の熱病に苦しむとき、この孤独感に似たものに襲われることを経験したことがあった。
彼と娘との間に恋愛関係などなかったに相違なく、又、そのような関係がある必要はないのである。彼のメランコリイは職域に於けるカットウや絶望感などが主因となっていたようであるが、そのような彼に風船の綱がきれたとき、最も強く思いだしたのがこの娘であるというのは、完璧なまで当然すぎるというキライがあるほどだ。
この娘は、今はタイピストをやめて、結婚しようとしており、一時は下山家の家族の一員のように親しかったが、今は離れた存在である。昔親しくて、今はめったに顔を合わさぬ存在であるということ、又、結婚の贈り物にあれかれ思い患うほど心をかけているということ、いわば、離れていても彼の心に棲んでいるということ、彼がこの時思いだすには、まことに至当の理由をもっている。又、娘と親しくなった理由は、三国人に睾丸を蹴られたとき、他の全員は逃げたのに、彼女一人が助けにかけつけてくれたということであった。彼が綱のきれた風船となって漠然と自分の心をさがしたとき、この娘に一目会いたい、そして、それが、何か力のタシになるように激しく渇望されたのは、あんまり適切な人間がいすぎたものだというぐらい、うまく出来すぎているのである。
しかし、人間の心は一筋縄ではいかないものだ。娘に会いたいと思ってその方面の電車にのり、その家に近いところまで行っても、それだけが彼の心の全部ではない。
彼はその日GHQの人たちと会う約束であったというが、その約束の時間はもうすぎている。そのことに思いつくと居たたまらぬ苦痛を覚えたであろうし、又、唐突に家族のことや、いろいろの職務のことや、それらはすべてそれらを思いだすたびに、彼を混乱させ、どうしてよいか分らなくさせたに相違ない。
彼は娘の家の近くまで行ったが、それ以上近づくことができなくて、ある距離をおいて、思いま
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