あるが、しかし、実際は、アサマシイとか、はずかしいとか、そのような体裁を絶した場で行われていることであり、それを直視して、承服する以外に手のないもののようである。それは、しかし、悲しいオモチャだ。ギリギリの最後のところで、顔をだすオモチャ。宿命的なオモチャであり、ぬきさしならぬオモチャだから。
 まずい食物は、それを食べなければよい。すきな食物を選んで満足することができる。しかし、肉慾はそうではない。それを充したり満足することができないものだ。肉慾に絶望して、肉慾の実行を抛棄しても、肉慾から解放されることはできないものだ。それは遁世しても真の孤独をもとめ得ないのと同じことだ。
 つまり、本当に孤独になるということと、本当に性慾から解放されるということは、どこまで生きてもあり得ない。彼が死に至るまでは。私はそれを下山総裁の事件をかりて、自分勝手のエスキスで現してみた。しかし、それは、下山氏の場合だけがそうではなくて、あらゆる人間がそうなのだ。
 彼がどのように偉くても、たとえば、徳行高い九十歳の文豪であろうとも、世を捨てた九十歳の有徳の沙門《しゃもん》であろうとも、彼の骨にからみついた人間と性慾から脱出して孤独になることはできないであろう。しかし、それを知って人間に絶望してみたって、話にならない。そこから現世へ戻ってきて、理性的工作に訴える以外に手はないし、そうしなければ生きて行く身の身も蓋もない話である。

  遊びせむとや生れけむ
  戯れせむとや生れけむ
  遊ぶ子供の声きけば
  わが身をぞこそゆるがるれ

 悲しい歌だ。我々はこの悲しさから脱出することができるだろうか。我々の理性的工作がどのようであろうとも、たぶんこの切なさを切りすてることはできないだろう。なぜなら、理性で処理のきかない世界だから。我々の骨にからみついた人間模様と性慾のあの世界だから。悲しい、しかし、いじらしい人間たちよ。



底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四七巻第九号」
   1950(昭和25)年9月1日発行
初出:「新潮 第四七巻第九号」
   1950(昭和25)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki

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