もある。
 芸術は、自然に勝らなければならないものだ。東洋の画家は山水花鳥を描き、西洋の画家は女の裸体を描く。いずれも、尤も千万だ。彼らがそれを美しいものと見ているのだから。けれども、現実の女にそなわるコケットなものよりも、もっとコケットな女を何人の人が描いてみせたろうか。まれに天才が、たとえばショパンが、そのような甘美なものを音の世界で表現したり、その裏側の痛々しい絶望を表現したりしたが、芸術の大部分は、それがすでに世評のあるものでも、自然に勝っているものは少いのである。
 自然にまさろうとは、俗悪千万な。万人はそれを諦めるが、少数のミイラだけが諦めない。異様な願望だ。
 織田信長のような、理智と、実利と計算だけの合理主義者でも、安土《あづち》に総見寺という日本一のお堂をたてて、自分を本尊に飾り、あらゆる日本人に拝ませようと考えた。着工まもなく変死して、工事は地ならしに着手の程度で終ったらしい。秀吉が大仏殿をたてたのは、その亜流であったろう。
 自分よりもお堂の方が立派だということを、ミイラどもは告白しているのである。彼らは人を見下していたが、いつも人に負けていた。そして、ほかの人に
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