そうだ。南雲さんは婦人科医だが、そんなことはお構いなしに、ムシ歯以外は南雲さんに委せッ放しにしていた。ずいぶん柄の悪いことまで、お手数をわずらわしたが、先生も、看護婦も、みんな親切であった。
どうも、私のように、過労を覚悟の仕事をしていると、仕事の責任は自分でもつが、身体の方は信頼できる先生に委せきった方がよい。その安心感で、瑣末な心配は忘れられるし、これ以上はどうなっても仕方がないのさと覚悟もつく。
蒲田にいた時は南雲さんにお委せしていたが、事ある場合だけで、平常は没交渉であった。
伊東へきてからは、天城さんに、毎日健康診断していただく。毎日、ブドウ糖とビタミンをうっていただく。これは大変いゝ方法であった。私はよくカゼをひくが、毎日診てもらっていると、今日はカゼだな、熱があるな、と思っても、安全感から、先生のすすめて下さる服薬を辞退するような気持になり、毎日先生にかかりながら、たいがい我流で処置している。安心感から逆にそうなるのである。
そして、これ以上のことは仕方がないと見きわめがつけば、どんな過労に対しても、労働のよろこび、完成のよろこびを主にして暮すことができる。過労に対して、私はかなり爽快ですらある。現在苦しいのは、深夜の寒気と、眼の痛みだ。
伊豆の山々は炭焼き地だから、炭はいくらでもあるが、私は炭酸ガスに弱いので、炭火をおこして仕事をすると、頭痛がし、メマイがし、全身の関節の力がぬけ、喪失状態にちかづいてくる。電気でやると、ヒューズがきれる。温泉につかる以外に仕方がないが、私の家の温泉はぬるくて(三十六度ぐらい)冬の用に立たないので、加熱しなければならない。それにしては、よく、やった。家族の協力のタマモノだ。女房は私の仕事の苦痛をやわらげるためなら、深夜に寒風の吹きすさぶ戸外でお風呂をわかすぐらいは平気であり、そんな時には、自分よりも私の方を大事にしていることがハッキリしている。それを自分の仕事だと思っているようである。その代り、私に無断で、容赦なく彼女はサラリーを消費する。女房というものが職業なら、彼女は私以上に高給をとっており、税務署は私の代りに彼女から取り立てるべきかも知れない。
眼の痛みは、老眼と近眼のゴチャまぜから視覚が狂い、視力の減退と変調にともなう眼の過労の結果のようだ。すこし読書して眼をとじると、涙がにじみ、眼の焼けつくような痛みが分ってくる。そして、いつも、眼が乾きすぎたためのような痛さがつきまとっている。砂漠の砂上に落ちた目だ。
ゆく春や 鳥啼き 魚の目に涙
芭蕉は何を見てこの句をつくったのだろう。これは、たしか、奥州の旅に立ってまもなく、よんだ句のようだが、旅日記を読むと、意味がハッキリする句だったかな? 私は温泉につかりながら、天城さんが持ってきて下さった洗眼器で、目に噴水の水をあてる。この時は、やや爽快である。疲れが、眼からだけでなく、頭全部からも、やや、ひいたように思われる。
「魚の目だ」
私は、そう考える。水にぬらしたからではなく、乾いて、風に吹きさらされて、ザラザラ痛いから魚の目なのだ。死んで、乾いた、魚の目。
「芭蕉の奴、乾物屋の店先で、シッポを荒縄でくくってブラ下げた塩鮭を見やがったのかも知れないな」
私は忘れていたのである。魚の目というのは、お魚の目の玉のことではなくて、足にできる腫物のような魚の目のことだろう。しかし、どうも、そう分ってみると面白くない。お魚の目の玉であってくれると、私の方にはピッタリするのであった。
女房は東京へ出かけて行った。
南雲さんの診断も同じで、即日、ダタイ手術したそうだが、胎児はすでに死んでいたそうである。
「ダタイ手術も、お産も、疲れは同じことです」
と、天城さんは女房に同情した。私は哀れを覚えて、使いの者にさらに余分の金を届けさせたが、女房は雑誌社からも原稿料をとりよせ、退院と同時に銀座に現れ、所持金使い果して、悠々御帰館であった。
女房は私に買ってきたミヤゲの品をくれたが、ダタイ手術の報告は一言もしなかった。私も、きかなかった。女房が私にミヤゲをくれる時は、自分がその十倍ぐらいの買い物をした時にきまっていた。
「お前はダタイして残念がっているかも知れぬが、その方が身のためだってことを気がつかないな」
私は深夜に起き上って、机に向い、机の向うに見える女房の寝姿を見ながら考えた。
子供が生れなくて良かった、ということの方が、ほとんど私の気持の全部を占めていた。
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。
私は彼女に云った。
「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」
彼女はうなずいた。私たちは、そうするツ
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング