ゐたのだらうか。私は息がとまつた。私は彼が何かいつてくれなければ大変なことになると閃くやうに思つたのだ。然し、彼の目は、あまりにも美しすぎた。
「あなたが私を殺さなければ、私が殺すわよ。それでいゝの。あなたが先に死んでも」
 彼は返事をしないのだ。深い目で、なんだか、そ知らぬやうに、私を見つめてゐるのだ。私は悲鳴をあげさうだつた。何か、いつて。一言。言つてくれなければ、もう、ダメぢやないか。
「殺すわよ。いゝの! 殺して」
 彼の深い目が、私を、ゆつたり見つめてゐた。私の方が先に叫んだ。ギャッといふ叫びが私ののどから走つた。そして私はカミソリを彼のクビに押しあてゝ力いつぱいひいてゐた。
 彼はグラグラして私の方へ倒れた。
「よし、ひいてくれ。力いつぱい」
 彼はたしかにさういつた。然し、それが、どの瞬間に叫ばれた声であつたか私はもう思ひだせない。彼のクビから一時に血がふきだした。その血は私の胸にもとびかゝつたが、まるで大きな噴水の柱にたゝかれたやうに強くて重い力がこもり、私はそれが彼の愛情のすべてのあかしであるやうな、なつかしさに激動した。
 私は彼を仰向けにした。彼はまだ苦悶してゐた。口をあけて、息をしてゐた。
「ミヅ……」
 私は見廻して水をさがした。彼の最後ののどの乾きを医《いや》さずにゐられやうか。私は然し一つの閃く考へのためにピリピリした。私は彼を見つめた。苦しげであつたが、どこか安らかな翳があつた。私の胸はみちたりてゐた。私は私のクビを切つた。私はうつぶした。私のクビのきり口が彼の口に当るやうに。私の血の噴水が彼ののどの乾きをみたす楽しさに、私はうれしかつたのだ。私の胸は燃えてゐた。そして冷めたく、冷静だつた。そして、すべてが、分らなくなつた。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「サンデー毎日 臨時増刊号」
   1947(昭和22)年5月1日発行
初出:「サンデー毎日 臨時増刊号」
   1947(昭和22)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
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