口説かれ方がされたくて、つきあつてゐるのぢやないわよ。鍵をあけて、ちやうだい。そして、私の下駄をキチンとそろへて、私を送りだしてちやうだい」
「うん。いづれは、あけてやる」
 彼はよろめきをこらへて、立止つて、再び手をポケットにつッこんで、うつむいて、目をとぢてゐた。
「オレは、いつぺんいつたことは、やりとげる。これだけ、つきあつたのだから、それぐらゐのことは、お前さんにも分つてゐるだらう」
 彼はポケットから、カミソリをだした。不器用な手つきで、刃をあけると、急にづかづかと進んできて、私の胸にハスに一文字にいきなり、ひいた。
 私は悲鳴をあげた。むしろ、息をひいたのだ。私は悲鳴をのみこんでゐた。彼の顔にいきなり浮んだ不逞なゆがみは、まさしく全力的な殺気であつた。そして彼はハスに一文字にカミソリをふつた。私の帯は二つにきれてゐた。彼はまた、白い顔で、陰気に私をにらんでゐた。
「オイ。帯をとけ。とけなきや、オレが、もう一度、切つてやらうか。今度切れば、何が切れるか、オレは知らん」
 彼の顔は、また、殺気にゆがもうとした。私はふるへて、叫んでゐた。
「とく! どいて。ひどいぢやないの」
「ぢや、とけ」
「だつて、見てゐる前ぢや、とけないわよ。電気を消して」
「電気か。ふん。消してやる。然し、帯だけとけ」
 私は帯をといた。私は然し、彼とにらみあつて帯をとく身のひきしまる感動に苦悶のよろこびを感じてゐた。
「よし。上の着物を一枚ぬげ」
「卑怯ぢやないの、男らしく、約束をまもつてよ」
 彼の身体がづかづか進んできた。恐しい速度で、大きな男の山のやうな影がおしかぶさるやうに思つた。私はふるへた。恐怖と同時に、めまひのやうな全身的な酔ひがあつた。私のからだを一文字に小さな叫びが走つたが、それは興奮の叫びであつた。彼のからだは私にぴつたりくつついた。何かゞ胸を押した。そして彼が離れると、私のヒモが切れていた。彼は片手で電燈のスイッチをにぎつて、私を見つめた。
「早く、ぬげ。ぬげば、消す」
 私はぬいだ。彼は私を見つめていた。急に光が消えた。
「寝床へはいつて待つていろ」
 私は万年床へはいつた。はりつめた力がゆるんでゐた。同時に別な緊張が息苦しいほど私の全身を押してきた。彼がどんなふうに私を抱いてくれるのだらうか、といふ、悲しいほどの、よろこびであつた。どんなふうにでも、されてやらう。私は、どんなにされても幸福なのだ、と思つた。一生のうちに今日ほどの幸福な日はあるはづがないのだ。この日を限りに、地獄へ落ちても、如何なる悲惨な運命がひしめきせまつても、この日を悔いてはならないのだ、と思つた。私は彼の何かやさしい小さな一言がかゝつただけでも、鳴咽しさうな気がした。
 しばらくの時間がすぎた。彼が何をしてゐるのだか私には分らなかつた。もう彼が何をしてゐても、よかつた。すると、突然、電燈がついた。私は小さな叫びをあげて、蒲団をかぶつた。
 彼は私の抵抗を排して、蒲団をはいだ。然し、そこに見出したものは、悄然と坐つた、弱々しい、男であつた。
「奥さん。あやまる。オレは、精いつぱいだつたんだ。こんなムゴたらしいことをせずに、奥さんと、お別れするつもりだつた。オレのことなんか、忘れてくれ。木村さんの良い奥さんになつてくれ。あの人は善良な人だよ。オレなんか、くらべものにならないんだ。オレはどんな女でも一晩ねる以上の興味がもてないやうなヤクザが魂にしみた人間のくづにすぎないよ。奥さんはわがまゝなんだ。木村さんに甘へすぎてゐる。肉体の満足なんて、タカが知れてゐるよ。そんなものクヨクヨしなさんな。奥さん、かんべんして、帰つて下さい。私が仰せの通り下駄をキチンとそろへる。ほんとに、すまん、帯をきつたり、着物をぬがせたり、そこまでするつもりはなかつたのだが、逆上してしまつたんだ。我ながら、これほど、別れぎはが悪い男だとは思つてゐなかつたんだ」
 彼の顔に弱々しい苦笑が浮んだ。
「オレはさつき、暗いうちに、クビをかき切つて死なうかと思つてたんだ。然し、奥さんをねせておいて、悪趣味な芝居気も気がさしたからな。まつたく、悪夢だつた」
「ぢや、もう死なないの」
「どうだか、分らん。だが、芝居気は、もうない。オレの死ぬのは自然なんだ。もう生きてもゐたくなくなつただけだから」
 私は興奮のために、みるみる冷めたく堅くなつて、ふるへた。私は起き上つて叫んだ。
「私を殺してよ。そして、あなたも死んでちようだい」
 彼は目をとぢて薄笑ひをうかべた。私はむらむら逆上した。いきなり飛びかゝつて彼のポケットからカミソリをつかみだして刃をぬいた。すると彼は深い目をして、沈んだやうに、私を見てゐた。こんな表情を、たれの場合も、私は見たことがなかつた。ヤケのドン底なのだらうか。死神がのりうつつて
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