らう。私は、どんなにされても幸福なのだ、と思つた。一生のうちに今日ほどの幸福な日はあるはづがないのだ。この日を限りに、地獄へ落ちても、如何なる悲惨な運命がひしめきせまつても、この日を悔いてはならないのだ、と思つた。私は彼の何かやさしい小さな一言がかゝつただけでも、鳴咽しさうな気がした。
 しばらくの時間がすぎた。彼が何をしてゐるのだか私には分らなかつた。もう彼が何をしてゐても、よかつた。すると、突然、電燈がついた。私は小さな叫びをあげて、蒲団をかぶつた。
 彼は私の抵抗を排して、蒲団をはいだ。然し、そこに見出したものは、悄然と坐つた、弱々しい、男であつた。
「奥さん。あやまる。オレは、精いつぱいだつたんだ。こんなムゴたらしいことをせずに、奥さんと、お別れするつもりだつた。オレのことなんか、忘れてくれ。木村さんの良い奥さんになつてくれ。あの人は善良な人だよ。オレなんか、くらべものにならないんだ。オレはどんな女でも一晩ねる以上の興味がもてないやうなヤクザが魂にしみた人間のくづにすぎないよ。奥さんはわがまゝなんだ。木村さんに甘へすぎてゐる。肉体の満足なんて、タカが知れてゐるよ。そんなものクヨクヨしなさんな。奥さん、かんべんして、帰つて下さい。私が仰せの通り下駄をキチンとそろへる。ほんとに、すまん、帯をきつたり、着物をぬがせたり、そこまでするつもりはなかつたのだが、逆上してしまつたんだ。我ながら、これほど、別れぎはが悪い男だとは思つてゐなかつたんだ」
 彼の顔に弱々しい苦笑が浮んだ。
「オレはさつき、暗いうちに、クビをかき切つて死なうかと思つてたんだ。然し、奥さんをねせておいて、悪趣味な芝居気も気がさしたからな。まつたく、悪夢だつた」
「ぢや、もう死なないの」
「どうだか、分らん。だが、芝居気は、もうない。オレの死ぬのは自然なんだ。もう生きてもゐたくなくなつただけだから」
 私は興奮のために、みるみる冷めたく堅くなつて、ふるへた。私は起き上つて叫んだ。
「私を殺してよ。そして、あなたも死んでちようだい」
 彼は目をとぢて薄笑ひをうかべた。私はむらむら逆上した。いきなり飛びかゝつて彼のポケットからカミソリをつかみだして刃をぬいた。すると彼は深い目をして、沈んだやうに、私を見てゐた。こんな表情を、たれの場合も、私は見たことがなかつた。ヤケのドン底なのだらうか。死神がのりうつつて
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