つた証拠だ。彼は顔色を変へしばしは声もでなくなるぐらゐ顛倒するが、やがて考へ、そして考へ終ると度胸をきめる。さうするとテコでも動かない度胸の男になるので、負けると分つた信玄との一戦にも断々乎として出陣する、秀吉と小牧山で戦ひ、さうかと思へばアッサリ上洛し拝賀もする。彼の家来の目には薄氷を踏むやうな危険にみちた道を、主たる彼のみが常に自信をもつて踏み渡つてゐた。その自信とは、ままよ、死んでもいいや、といふことだ。彼は命をはる人であつた。そのくせ彼は命をはつて天下を望んでゐたわけではない。命をはつて、ただ現在の生存を完《まつと》うしてゐたといふだけのことなのである。
秀吉が死ぬ。すると家康が意志するよりも、世間の方が先に意志し、彼は世間の意志に押されて自分自身を発見し、意志するやうな有様だつた。加藤清正などといふ秀吉子飼ひの荒武者まで三成を憎むのあまり家康支持に傾くといふのだから家康とても思ひの外であつたらう。福島正則の如きまで禁を承知で家康と婚を結ばうとする、いはんや黒田如水などはわざわざ九州から出ばつてきて家康を護衛する、名目は三成の天下の野望を封ずるためとあるのだが、それはうはべだけのことで内実は家康の天下を見越してすこしも先に忠勤を見せようといふさもしい心掛けだ。
前田利家が死んだ夜、黒田、浅野、加藤などといふ朝鮮以来三成に遺恨を含む連中が三成を襲撃しようとした。三成は女の籠に乗つて浮田の邸へ逃げこんだが、更に家康の邸へ逃げこんできた。追跡してきた面々が騒いでゐるのを家康が玄関へ出て行つて、諸君の顔も立つやうにする、三成は政界から引退させるから助命させてやつてくれと頼んで引きとらせた。その夜更けに本多正信が家康の寝所へでかけて行つて、三成のことはどうお考へで、と尋ねると、家康は、アア今それを考へてゐるところだ、左様ですか、お考へ中となら別に申上げることもありますまい、と引下つてきたといふ。正信の考へでは三成を生かしておけば今に徒党を結んで反乱を起す。なまじひに今殺してしまふと、反家康党の反乱といふ一とまとめに敵を平げる火口を失ふことになるから、ここは生かしておいて反乱を起させる方がよいといふ考へ、それを家康に上申するつもりであつたが、家康が思案中だといふから、家康の思案なら自分の考へと同じところへ落ちる筈だと呑みこみよろしく引下つたのだといふ。こんな話は無論後世の作り話で、家康一代の浮沈を決する大問題を禅問答の要領で呑みこんでくるなどといふバカげた筈があるべきものではない。特に家康正信はしつこいほど慎重なたちで、かりそめにもかかる軽率なやりとりですませるやうな人柄ではなかつたのである。
然し三成をかくまひ、翌朝は護衛までつけて佐和山へ送つてやつた家康の肚は、三成を生かしておけばやがて反乱のあげく三成党を一挙に亡しうるといふ、家康がその肚であるばかりでなく、三成がその肚を見抜きここへ逃げれば必ず助けられると見越して逃げこんだのだといふ。両々ゆづらず、神謀鬼策、蛇の道は蛇、火花をちらす両雄の腹芸といふところだが、話が出来すぎてゐるやうだ。
家康は温和な人だといふ秀吉の口癖は見る人には共通の真実であり、三成もそれを知つてゐたのだと思ふ。家康とてもこの微妙な時代に先の見透しなどがあるべき筈はない。結果に於て関ヶ原で勝つてゐるから、まるでそれを見越した上での芸当だつたと片づけてゐるのだが、関ヶ原は一大苦戦で、秀秋の裏切りまでは、家康はすでに自らの敗北を信じてゐた。彼は無我夢中で爪を噛んで、小倅めにだまされたか、口惜しや口惜しやと歯がみをしてゐたといふ。彼は不利の境地に立つと夢中で爪を噛む癖があつたさうで、小倅めといふのは金吾中納言秀秋のことだ。この小倅は元来秀吉の甥で、秀吉の養子となつて育つたのだが、黒田如水らのとりもちで小早川隆景の養子となつた。朝鮮役では秀吉の名代格で黒田如水を参謀に出陣したが生来の暗愚で、朝鮮の戦争でも失策をやり秀吉の怒りにふれて筑前七十余万石から越前十五万石へ移封を命ぜられたのである。ところがまだ越前へ移らぬうちに秀吉が死に代つて政務を見るやうになつた家康のはからひで移封は有耶無耶《うやむや》に立消えてしまつた。如水とは深い関係があり家康には恩義があるから、関ヶ原へ出陣のため九州を立つ時から如水のすすめで裏切りの約束を結んでゐた。この裏切りがなければ、まさしく家康は爪を噛み噛み関ヶ原の露と消えてゐたのであつた。
三成は四面楚歌であるとはいへその背後には豊臣家があり、家康の党類は多いと云つても、その中のある者は反三成の故に家康に結ぶだけで、豊臣徳川となればハッキリ豊臣につく連中だつた。さういふ微妙な関係にあつて、三成にことさら反乱を起させてまとめて平げやうなどといふ利いた風な細工が自信満々でつちあげら
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