貌面影に就ては殆ど何も残つてゐない。ただ、今川へ人質に送られる途中、織田家の者に奪ひとられ、その彼自身を種にして織田から徳川へ一味をせまつたとき、子供ぐらゐ勝手にするがいいさ、同盟は破られぬ、とキッパリ答へてきたといふ父、これぐらゐハッキリと記憶に残つてゐる父はないのである。殺されるべき六歳の家康は殺されもせず、むしろ鄭重に育てられた。それは今川家に於けるお寺暮しの八年間よりもむしろもてなされ、いたはられたほどで、したがつて家康の織田に対する記憶は元来悪くない。しかしながら、幼少年期の数奇な運命を規定した一つの原理、原理といふ言葉は異様な用法に見えるかも知れないけれども、幼少の家康にとつて、それは恰《あたか》も原理の如きものであつたと思はれる。なぜなら少年にとつては最も強烈な印象、強烈な信仰が原理なのであり、それは家康にとつて最も強烈な印象であり信仰に外ならなかつたからである。
その原理とは、父は自分をすてても同盟に忠実であつた、といふ正義である。家康はその正義を信仰し、その父を心中ひそかに英雄化してはぐくんだ。父は自分をすてたにも拘らず、自分はむしろ織田の厚遇を受けた、そのことすらも父の正義の当然の報酬の如く感じた、或ひは感じたがらうとした。かうして彼の環境をつらぬく原理が、やがて彼自身の偶像たる独自な英雄像を育てあげたので、彼が後年信長との二十余年の同盟に忠実であつた当代異例の独自の個性がかうして生れつつあつたのである。
彼の父が彼を棄てた如く、家康も亦自分の子供を人質にだし、煮られやうと焼かれやうと平気であつた。家康を人質にだして勝手に殺すがいいさとうそぶいた広忠のまことの心事はどうであつたか、これをたづねるよしもないが、わが子わが孫を人質にだした家康の場合は冷然たるもので、子供や孫ぐらゐ、彼は平然たるものであつた。従つて、彼は秀吉が小牧山の合戦のあとで母を人質によこしたり妹を嫁にくれたりして上洛をうながしたときにも、母や妹の人質などといふことにはなんの感動もなかつたので、ただ時の勢ひといふものに冷静に耳をすまし目を定めてゐただけのことであつた。
一般に野心家といふものはわが子の一人や二人犠牲にしても野心のためには平然たるもののやうに見えるけれども、案外野心家には肉親的な感情の強い人が多いもので、祖先とか家といふものと同化した動物のやうな保守家の方が却つて肉親的に不感症で、家のためには子供の一人や二人煮られようと焼かれようとと本能的なつめたさを持つてゐるものなのである。家名のためだなどと云つて我が子を冷酷に追ひだしたり、中には肺病の子供を家名のために早く死んでくれと願つたりする、さういふ冷酷な特異性がもはや特に鋭く訴へてこないほど我々の身辺には家名の虫のつめたさが横溢してゐるのだ。その御当人が自分のつめたさに気附かずに、甘つたるい家庭小説か何かに涙を流してゐるのだから笑はせる。人は涙といふものを何かマジメに考へがちだが、笑ひの裏と表にすぎないので、笑ひが単なる風とその音にすぎなければ、涙などは愚かしい水にすぎない。妙に深刻に思はれるだけむしろバカげたものである。
家康も保守家であつた。そして彼は子供だの孫だのの二人三人はどうならうと平気の平左の人であつた。律義者で、温和な考への人だ。そして、自分に致命傷の危険がなければ人が何をしようと、どんなに威張らうと、朝鮮へ遠征しようと、親類の小田原を亡ぼさうと、我関せずでゐる人だ。時世時節なら何事も仕方がないといふ考へで、秀吉の幕下に参じて関白太閤などと拝賀することぐらゐ蠅が頭にとまつたほどにしか考へてゐない。
このままいつ死んでもそれでよし、さういふ肚の非常にハッキリした家康で、さういふ太々《ふてぶて》しい処世の骨があつたから、野心家のやうにあくせくしないが、底の知れないやうなところがある。それで古狸などと思はれるが、根は律儀で、ただいつ死んでもいいといふ度胸の生みだした怪物的な影がにじんでゐるだけである。
いつ死んでもいいといふ最後の度胸はすわつてゐたが、平常の家康はお人好しで、小心な男であつた。彼は五十ぐらゐの年配になつても、まだ、たとへば近臣が何かの変事を告げ知らせると、忽ち顔色青ざめて暫く物が言へなくなるたちであつたといふ。秀吉の死後、三成一派が家康を夜襲するといふ噂の時にも彼は顔色を変へてしまつたといふことで、いい年配になつてもさういふ素直な人だ。素直といふ意味は、たとへば我々のやうな凡人でも、四十五十になれば事に処して顔色を変へないぐらゐの稽古はできる。我々は内心ビクついてをりながら顔色だけはゴマかすぐらゐの習練はできるのである。それは形の上の習練で内容的には一向に習練されてはゐないのだが、家康といふ人は、つまりさういふ虚勢の、上ッ面だけのお上手が下手であ
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