純潔さは失はれて、勢ひに乗じて自我の抑制もつつしみも忘れただ慾の皮の仕上げをたのしむだけの老獪《ろうかい》な古狸になつてしまつた。彼は齢をとつてきた。クーデタがきらひだなどといふうちにいつ死ぬかも知れない怖れもまじつてきて、恥も外聞もなく狸婆アの嫁いぢめのやうな泥くさいことを平然とやつてのけたが、古今東西、天下をとつた男の中でこれぐらゐ不手際のとり方はめつたにない。こんな下手クソな見えすいた口実をつけるぐらゐなら始めからアッサリ武力に訴へて然るべきであらうに、それが出来ずにかういふ泥くさい不手際でかすめとつたといふのは、彼はつまり凡そ人の天下をとるにふさはしくない場違ひ者であつた証拠である。
 時代といふものは奇妙なもので、決してその時代の最大最高とは限らない人物が、時の流行の思潮によつて最大最高の位置につく。その下役の参謀などに却つて人物がゐても、時代は識見と相応せずに人柄と取引するやうな場合が多いので、柄が時代に合はないと、どうにもならないものである。
 芸術などは思潮自体流行的なものだから別してさうで、流行作家といふものは時代思潮を血肉化して永遠の足跡を残す人は案外少くむしろ歴史的には埋没する性質の多いものなのである。
 家康といふ人は力づくで人の天下をとるべき性質の人ではないので、よい番頭、よい公僕、さういふ人で、議会政治の政治家としては保守党の領袖などにまア似合ふ人だ。そして新聞から優柔不断だの新味がないだのと年中コッピドクたたかれてゐる人だ。それが戦国時代に生れて奇妙に衆に押されて前面へでて、最後にはファッショの御大のやうなクーデタをやらざるを得なくなつたから何とも珍無類な古狸の化けそこなひのやうな不手際な天下のとり方をしたのである。
 政治家としては新味もなく政策も平凡な保守家で、ただ間違ひがないといふ点で結局保守党の領袖にはなる人であつたらう。然し、いざといふ時に際して、いのちを賭けて乗りだしてくる気魄だけは稀であり、その賭博が野心に賭けられてゐるのでなく、ただ現実を完うするだけの小さな現実の誠意にかかつてゐる点で、珍重すべきものであつたと思はれる。
 アメリカの軍陣医学によると、爪を噛む癖の男は戦争にでると恐怖のあまり発狂するのが通例だといふことである。すると家康も一兵卒で戦場へでると、臆病者で物の役に立たないやうな男であつたかも知れぬ。実際彼は小
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