後世の作り話で、家康一代の浮沈を決する大問題を禅問答の要領で呑みこんでくるなどといふバカげた筈があるべきものではない。特に家康正信はしつこいほど慎重なたちで、かりそめにもかかる軽率なやりとりですませるやうな人柄ではなかつたのである。
然し三成をかくまひ、翌朝は護衛までつけて佐和山へ送つてやつた家康の肚は、三成を生かしておけばやがて反乱のあげく三成党を一挙に亡しうるといふ、家康がその肚であるばかりでなく、三成がその肚を見抜きここへ逃げれば必ず助けられると見越して逃げこんだのだといふ。両々ゆづらず、神謀鬼策、蛇の道は蛇、火花をちらす両雄の腹芸といふところだが、話が出来すぎてゐるやうだ。
家康は温和な人だといふ秀吉の口癖は見る人には共通の真実であり、三成もそれを知つてゐたのだと思ふ。家康とてもこの微妙な時代に先の見透しなどがあるべき筈はない。結果に於て関ヶ原で勝つてゐるから、まるでそれを見越した上での芸当だつたと片づけてゐるのだが、関ヶ原は一大苦戦で、秀秋の裏切りまでは、家康はすでに自らの敗北を信じてゐた。彼は無我夢中で爪を噛んで、小倅めにだまされたか、口惜しや口惜しやと歯がみをしてゐたといふ。彼は不利の境地に立つと夢中で爪を噛む癖があつたさうで、小倅めといふのは金吾中納言秀秋のことだ。この小倅は元来秀吉の甥で、秀吉の養子となつて育つたのだが、黒田如水らのとりもちで小早川隆景の養子となつた。朝鮮役では秀吉の名代格で黒田如水を参謀に出陣したが生来の暗愚で、朝鮮の戦争でも失策をやり秀吉の怒りにふれて筑前七十余万石から越前十五万石へ移封を命ぜられたのである。ところがまだ越前へ移らぬうちに秀吉が死に代つて政務を見るやうになつた家康のはからひで移封は有耶無耶《うやむや》に立消えてしまつた。如水とは深い関係があり家康には恩義があるから、関ヶ原へ出陣のため九州を立つ時から如水のすすめで裏切りの約束を結んでゐた。この裏切りがなければ、まさしく家康は爪を噛み噛み関ヶ原の露と消えてゐたのであつた。
三成は四面楚歌であるとはいへその背後には豊臣家があり、家康の党類は多いと云つても、その中のある者は反三成の故に家康に結ぶだけで、豊臣徳川となればハッキリ豊臣につく連中だつた。さういふ微妙な関係にあつて、三成にことさら反乱を起させてまとめて平げやうなどといふ利いた風な細工が自信満々でつちあげら
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