ません。またそれを顔ちかく引きよせて打ちながめ、同じくりごとを五度ほどくりかえしてから、やっと釜の中へ投げすてました。
 一年分の薬代を一度の風呂ですませるのが不足どころかオツリがタップリあるらしい様子。さても怖しい風呂、これにつかって長命しなければフシギというものだと妙庵先生おそるおそる足を入れようとすると、たいそう、ぬるい。ふだん風呂にはいりつけないから、湯カゲンも知らないらしい。ふと隠居を見やると、折しも隠居は泪をハラハラと膝にこぼしていられるところ。
「ああ月日のたつのは、ほんとに夢のようだこと。明日はもう一周忌になるが、ほんとに惜しいことをしました」
 妙庵先生これを耳にとめてフシギがり、
「して元日にどなたが死去されましたか」
「アラ。いいえ。とんだ歎きをお耳に入れましたが、私がいかに愚痴になればとて、人が死んだぐらいで、こう歎きは致しません。去年の元旦に妹が年賀に参りまして、銀《かね》一包みお年玉にくれましたが、あまりの嬉しさに神ダナにあげて拝んでおりましたのを、見ていた者がいたんですね。その夜のうちに盗まれてしまったのです。いろいろと諸神に願をかけましたが、その甲斐もな
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