な。鼠というものは思わぬ遠歩きを致すものだな。まして隠居家と母家の間ぐらいは物の数ではござるまい。このような鼠のイタズラは世間によくあることです」
「口がしこいことを仰有《おっしゃ》っても、私ゃもう、だまされませんよ」
「私がだましたことがあるようで恐縮だなア。これよ、小僧さん。御当家には有るまいから、御近所で年代記をかりてきなさい。ヤ、ありがとう。エエと。人皇第三十七代孝徳天皇大化元年十二月大晦日。これだ。ごらんなさい。鼠の引越し。ここにチャンとでている」
「物の本なぞに何がでていたって絵ソラゴトですよ。実物を見なきゃア何が信用できるもんですか」
証拠の年代記も相手にしてくれないから、妙庵先生もサジを投げました。
「お忙しい最中に長々と結構な風呂をちょうだい致した。これで一段と長生き致すだろう。では、さよなら」
と立ち帰ろうとするのを主人の源兵衛が追ってきて、
「殺生ですよ、先生は。あんなにウチの婆さんを怒らせちまッて、自分だけ一段と長生きして行っちまうなんて」
「とんでもないことを云う人だね。私が御隠居を怒らせたわけじゃアないでしょう」
「いいえ、そうですとも。仕掛け山伏だ、ドジョウだ、砂時計だなんぞと余計なことを云うからですよ。年代記なぞを取り寄せて婆さんの気をひいて、あそこまで逆上させてしまったんですから、チャンと始末をつけて下さらなくちゃア。私ども無学の者には年代記のあとの始末はつきませんよ」
「これは甚だこまったな」
「いえ、こまったのはこッちですよ」
「後の始末と申しても、実物を目で見なくちゃア何も信用いたしませんと仰有られちゃア、鼠の引越しを見せたくとも、鼠が引き受けてくれませんのでな。ハテ、待てよ。ウム。実物を見せられないこともないが、お金がかかるな。伊勢屋さんがお金のかかることをする筈はなし。乗りかかった舟だ。まア、仕方がない。では実物を連れてきて御隠居を納得させてあげるから、暫時まちなさい」
仕方がありませんから、妙庵先生はその足で鼠つかいの藤兵衛を訪ねました。そのころ江戸湯島に長崎水右衛門という名題《なだい》の獣使いがおりまして、この人に雇われて鼠を使っていた藤兵衛がいま上方に住んでおります。妙庵先生、これを訪れまして、
「実はこれこれの次第でな。鼠が物を運んで遠歩きするところを実地に見せなくては、その隠居が一同を祈り殺す怖れもあるから
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