ってふりむいたとき、オツリはいらないよ、などゝそんな言葉を咽喉《のど》に出す軽快な早業は有りうる由もないけれども、ふりむいて逃げ去ることはできた筈であった。然し、思い惑っているうちに、女は戻ってきて、オツリを突き出す。ソレは、チップです、などと今更云うわけに行かない。
 先生は自分のリンショクに混乱した。先生は貧しかったが、リンショクだとは思いたくなかったのである。けれども、現にケチではないか。もとより意地のわるい彼女らに分らぬ道理はなく、軽蔑しきっているに相違ない。けれども先生がそのツリを受け取るまでは、思いきって振りむくことによって、チップをはずむチャンスはある筈である。そのことに気付くと、振りむく代りに、先生の手はワナ/\ふるえて、お金の方へのびようとする、惜しいのだ。こゝまできては、ふりむかれぬ。この期《ご》に及んでオツリの中からチップをとりわけて差出すことは益々もって嘲笑されるばかりであるから、もはやヤケクソの意気ごみでオツリを受け取ってしまうと、とたんに、思わず、
「アリガトウ」
 と呟いているではないか。先生は羞しさに失心した。
 先生はフラフラと街を泳ぎ、電柱を見れば、電柱に頭を打ち砕いて死にたいと思い、そのくせ夢中に自転車をよけているアサマシサに恥の限りを感じた。
 先生は料理店へ帽子を忘れてきたことに気付いたが、もとよりそれを取りに戻ることなどの出来うるものではなかった。

          ★

 先生は大学生がキライであった。然し、大学で生徒にものを教える先生であった。
 先生が覚悟をかためて支那ソバ屋の戸口をくゞったのも、もとはと云えば、大学生に対する反感と憎しみのせいなのである。
 先生の給料は六百五十円であった。稀れに雑誌社から十枚二十枚の寄稿をたのまれることがある。すると給料と同額ぐらいの稿料を貰うけれども、毎月というわけではなく、毎月にしたところで、合せて、お茶汲みの女給仕に及ばない金額であった。
 だから先生の生活はもっぱらタケノコに依存しており、キモノを売り、タンスを売り、細々と生きる。
 先生の家族は、先生の母と二人の子供と女房アキ子の五人暮しであった。
 アキ子は亭主を徹底的にカイ性なしの敗残者と思っていた。原稿を書けば売れるのだからセッセと書いて稼ぎなさい、とすすめるのである。脅迫の見幕であった。然し、先生の原稿はセッセ
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