ど徹底的にただの百姓屋である。村の旦那の風すらもないただの百姓屋であった。しかも、それにも拘らず、村をあげてのお祭りだ。門弟や里人の念流と樋口家に対する態度は、まさしく教祖や神人《しんじん》に対するそれで、村の誇りであり、彼らの生き甲斐ですらもあるように見うけられるほどだ。実質的にかくも大きな尊敬をうける教祖や神人がこんな質素な住居にいるのはこの里だけのことであろう。
 樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎|兼光《かねみつ》の子孫である。次郎兼光の妹は女豪傑|巴《ともえ》だ。もっとも、樋口の嫡流は今も信州伊奈の樋口村にあって、馬庭樋口はその分家である。
 足利三代義満のころ、まだ南北朝の抗争のうちつづいたころであるが、奥州相馬の棟梁に相馬四郎|義元《よしもと》という剣の名人があった。この人が後に入道して念和尚《ねんおしょう》と名を改め、諸国を行脚して剣を伝えて歩いたが、行く先々で鎌倉念流、鞍馬念流、奥山念流なぞと諸国に念流を残し、最後に信州伊奈の浪合《なみあい》に一寺を造って定着し、ここで多くの門弟に剣を伝えた。この浪合で印可皆伝をうけたものが十四名あって、その一人に樋口太郎|兼重《かねしげ》があり、これが馬庭念流の第一祖である。
 三世のころ、上杉|顕定《あきさだ》に仕えて上州|小宿《こしゅく》へ移ったが、八世の又七郎|定次《さだつぐ》のとき馬庭へ土着し、ここから百姓剣法が始まるのである。今は二十四代である。
 したがって、馬庭念流という独特のものは八世又七郎に始まると見てよい。彼はまた馬庭念流二十四代のうちで最も傑出した名人でもあったようで、念流本来の極意書が樋口家に伝わるようになったのも又七郎の時からである。
 又七郎が馬庭に土着して道場をひらいたころ、高崎藩に村上天流斎という剣客が師範をつとめていた。どっちが強いかという評判が高くなって、ついに藩の監視のもとに烏川《からすがわ》の河原で試合することとなった。天流斎は真剣、又七郎はビワの木刀で相対したが、又七郎の振下した一撃をうけそこねて天流斎は即死した。天流斎のうけた刀と、又七郎の打ちこんだ木刀とが十字形に組んだまま天流斎の頭を割ってしまったので、これを十字打ちと伝えている。ちょうど宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で勝負を決したのと同じころの出来事である。
 又七郎は諸方から仕官をもとめられたが一切拒絶して土に親し
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