一点ばりの剣術だ。
 馬庭念流の門弟中で名高いのは堀部安兵衛だ。越後の新発田《しばた》から上京すると、馬庭が順路に当るから、自然念流の門を叩くようになったらしく、三年間内弟子の修業をしたそうだ。だから、高田の馬場の仇討も、無構えのヘッピリ腰でやった筈で、さだめし相手も面くらったに相違ない。

     この村が一度喧嘩をした話

 馬庭の里があげて一度だけ騒動を起しかけたことがあった。その相手は千葉周作とその門弟だ。
 千葉周作がまだ血気のころのことらしく、当時彼は高崎在、引間《ひきま》村の浦八《うらはち》の家に泊り、そこで剣術を教え門弟を集めていた。集まる門弟の中には念流を破門された連中も加わっていて、馬庭念流を尻目に天下一の名人千葉周作の名を宣伝してまわった。あげくに千葉一門は伊香保温泉へ赴き薬師堂へ額を奉納したのである。
 念流の人たちは千葉一門の行動をかねて不快に思っていたが、額奉納で怒りが爆発した。他郷の者が薬師堂に奉納額をかけるとは馬庭念流を侮辱するものだと、その額をひきずり下して念流の額をあげるために、師匠には隠して門弟一同馬庭を脱出、伊香保に向ったのである。赤堀村の本間道場からも六十余名の助勢がくる。また諸所の村里からも念流の門弟が伊香保をさして馳せ参じ、総勢七百余名になった。
 伊香保には大屋と称する湯宿が十二軒あったが、その一軒の木暮武太夫《こぐれぶだゆう》旅館に千葉一党が宿泊し、他の十一軒は念流の一党で占領してしまったのである。
 岩鼻の陣屋から役人が出向き、千葉の奉納額を止めさせて事は一たん落着したが、今度は千葉一党がおさまらない。引間村の浦八方に全員集合し伊香保へ攻め登る用意にかかる。伊香保の念流一党はこれを知って夜戦の符号や合図を定め山林中に鉄砲を構えて敵を待つ。この騒動が十日つづき代官が説得に一週間もかかってようやく伊香保の念流一党を解散帰村させることができた。結局本当の衝突には至らなかったのである。
 これが馬庭の里人の仕でかしたたった一度の騒動であるが、これも念流と師家に対する尊敬の厚きがためである。馬庭の土と念流とが彼らの人生の全てなのだから、代官が説得に一週間もかかったのは無理もなかろう。千葉周作の講談では千葉一党が勝ったように語られている由であるが、これは全くのマチガイで、実際の衝突には至らなかった。そして馬庭の里人にとって千
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング