最も強く打つ最良のフォームというものが理想型としてほぼ考えうるのである。各人の体形に合せてその理想型を消化し会得しなければならないのだが、一流のプロになるには一日少くとも五百回打撃の練習をし、さらにコースをまわり、一日中ゴルフで暮して少くとも二十年、十四五でクラブを握って四十前後に最盛期に達し技術も完成すると云われている。しかし、技術的にはついにフォームの完成しないプロの方が多いそうだ。静止しているボールを打つだけで、そうなのである。
 打たれまいと用心している人、そして隙あらば打ってかかろうとしている人に決定的な一撃を加えることは、それよりも困難にきまっている。馬庭念流が打ち下す一手に一生の訓錬をかけているのは少しもフシギではない。手だけが延びすぎた、アゴがでた、腰が浮いたと一打ごとに直され教えられて、八十の老翁が歯をくいしばって打ち下した太刀を押しつけている。それは他の道場の練習風景とはまるで違う。そして老翁の稽古が終ると見物の人たちからパチパチと拍手が起る。しかし老翁は例の残心の心得によってまだ目の玉を光らせ、相手を睨みつけながらモモダチを下して自分の席へもどる。そこでやっと元の百姓にもどって汗をふくのである。
「ウム。何々さんも腕が上ったなア」
 と見物の中でささやく声がきこえる。腕が上ったとほめられてるのは頭のはげた六十五六の老人なのだ。
 四天王筆頭の使い手がナギナタを相手に戦う。ナギナタの婦人は死んだ先代二十三世の妹である。四天王は立つや否や足をバタバタ間断なく跳ねてナギナタの足払いに備えている。そしてナギナタの足払いはそれによって概ね外すことができるけれども、時々ハッシと斬られて、
「参った。完全に、やられた」
 ひどく正直である。私は剣道については知らないから、他流との比較を知るために、講談社の使い手の一人K君に同行を願ったのである。私は訊いた。
「他流でも、あんなことをやりますか」
「とんでもない。何から何まで類型なしです。ちょッとだけ似ているものすらもありませんよ」
 間断なく足をバタバタ跳ねて走りまわりながら斬ったりよけたりしているから、てんで剣術らしい威厳がない。満場ゲラゲラ大笑いであるが、なるほどナギナタと戦うには、こんなことでもしなければ女の子に易々と斬り伏せられるに相違ない。イノチの問題だから見栄や外聞は云っていられない。ただもう実用
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