安吾人生案内
その六 暗い哉 東洋よ
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)抑々《そもそも》
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奈汝何 節山居士
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抑々《そもそも》男女室に居るは人の大倫であり、鰥寡《かんか》孤独は四海の窮民である。天下に窮民なく、人々家庭の楽あるは太平の恵沢である。家に良妻ある程幸福はない。私の前妻節子は佐原伊能氏の娘で、実に貞淑であり、私の成功は一にその内助に依り、その上二男三女を設けて立派に嫁婚を了えた。憾《うら》むらくは金婚式を拳ぐるに至らず、私の為に末期の水を取ると臨終の際まで言いつゞけて遂に亡くなった。晩香はこの節子の果たし得なかった役割を演じて呉れるべく、突如として現われたので、私の晩年は御蔭で幸福であった。私は継配として迎える以上、正式に結婚するつもりであったが、入籍のことは晩香が固辞したのでそれに従った。晩香は己れを詐《いつわ》らず、極めて恭順な態度であったから、私の近親もよくその人となりを諒解し、一年の間には相親しむ様になり、私も大に安心した。然るに入籍させなかったから今回の不幸を見るに至ったというものあらば、晩香の真情を知らざるものである。
要之《これをようするに》私と節子との夫婦生活は愛と敬とに終始したが、晩香とは愛の一筋であった。晩香は長岡での全盛時代、偶々《たまたま》軍需景気の倖運児の妾となったが、元来妾という裏切り行為を屑《いさぎよし》とせず、断然之を精算して、自ら進んで名家の正妻となったけれども、散々苦労の末、遂に破鏡の憂目に遭った。世の荒波にもまれながらも、よくその心の純真さを失わなかった。泥沼の蓮とは晩香のことである。(廿五年三月号の主婦と生活に詳《つまびらか》である。)私は晩香の純情を愛した。晩香も亦《また》私に由り、私を通して、始めて真の愛情を知った。私から受ける直接の愛ばかりでなく、私を取りまく人々の意気に感激した結果である。尾崎士郎君は「夢よりも淡く」と評し去ったが、夢ではなく、現実であった。即ち晩香は小田原に於ける漢文素読会を生んだ。固《もと》より私を中心としての学生会であるから、私は生みの親であるが、晩香は育ての親であった。学生の晩香を追慕する情は誠に涙ぐましいものがある。晩香亡き後、私はむしろ二三子の手に死なんと願うものである。(と言っても決して長男夫婦の孝志を辞する訳ではない。)
私の心境は伊東火葬場の棺前で述べた通りである。神仏の前には身分の相違はない。新憲法も人権の自由平等を認めて居る。棺前に立った時は塩谷温対長谷川菊乃であった。之が人間の真の姿である。穂積博士の脳髄は医学の好資料となった。私は俎上の魚となった以上敢て逃げ匿《かく》れはしない。内外の学者文士、評論家に由って私の人間味を忌憚なく縦横に評論して戴きたい。戦後派諸人の反省する所となり、人道の扶植《ふしょく》に寄与するあらば幸甚である。或人は「恋は内証にすべきもので公然なすべきものでない」といい、又或人は「先生の愛は僅に一年有半に過ぎなかったが、それは圧縮した一篇の詩である。長くなれば散文になってしまう」といった。夫れ然り豈《あに》夫れ然らんや。嗚呼私は是にして公は非なるか、美人は薄命か、薄命なるが故に美人か。仰いで天に問えば天は黙々。俯して地に質せば地は答えず、菊乃々々奈汝何。(七月三日於小俵晩香庵記)
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私の姪が自殺したことがあった。年は廿。自宅の前の堀へ身を投げて死んだ。自家用の堀だから、深くない、底に小石を敷き、山の清水をとりいれてめぐらしたものだから、キレイに澄んでいて深さよりも浅く見えるかも知れないが、雨後の満水時でも腰よりも深いとは思われない。姪は一滴も水をのんでいなかった。飛びこむ前に覚悟の激しさに仮死状態だったかも知れない。しかし、自殺には相違ない。深夜、一時と二時の間ぐらいに寝室をでて身を投げた。神経衰弱気味で、小さな弟に、
「一しょに死なない?」
と誘ったこともあったそうだ。
姪の方が菊乃さんよりも原因不明の状態である。婚約がきまって本人も満足していた時であったが、胸を病んでいた。しかし一応全快後で、病後には私のところから東京の女学校へ通っていた。明るくて、表面は甚だしくノンキな娘であった。あんまり宝塚へ通いすぎるというので私の母に叱られたことがあったが、この娘はいささかもヘキエキせず、巧みな方法で母を再々宝塚見物にひっぱりだして、いつか年寄りをヅカファンにしてしまった。ヅカ見物が公認を得たのは云うまでもない。生きていると、いくつかな。菊乃さんよりは若い。姪の故郷は長岡藩の隣りの藩に所属している。そしてサムライではないようだ。
誰が自殺するか、見当がつかないものだ。私が矢口の渡しにいたころ、近所の老夫婦が静かに自殺していた。小金があって、仲がよくて、物静かで、平穏というものの見本のような生活をしていた人である。子供がなかった。世間的に死なねばならぬような理由は一ツもなかったらしいが、すべてを整理し、香をたいて、枕をならべて静かに死んでいたそうだ。
塩谷先生は菊乃さんが自殺したと説をなす者を故人を誣《し》いるものだとお考えのようであるが(同氏手記「宿命」――晩香の死について――週刊朝日八月十二日号)誰が自殺しても別にフシギはないし、自殺ということが、その人の、またはその良人の不名誉になることだとも思われない。
浜辺に下駄がぬいであったということは、偶然死よりも自殺を考えさせるものであるし、殆ど水をのんでいなかったということは、思いつめた切なく激しいものによって、目当ての死に先立って死んでいた、そういう一途な思いつめたものを考えさせます。先生がたまたま通りがかりの仏寺の読経をきいて黙祷した。と、仏寺の主婦が現れて茶に誘ったという。それを菊乃さんの死の時刻と見、霊のみちびきと見るのは、あるいは然らん。死しても魂の通うお二人であったでしょう。しかしながら、菊乃さんに自殺の理由は甚だ多くあってもフシギではありますまい。平穏円満な生活の裏にも破綻は宿っているものです。彼女は神経衰弱気味であった由、これほど彼女の自殺を雄弁に語るものはない。
アコガレというものは、一生夢の中にすみ、現実からとざされているから、そのイノチもあるし、人生の支えとなる役割も果す。アコガレが現実のものになるのは危険千万で、誰かがアコガレの対象とあった場合に、他人のアコガレを現実的に支える力はまず万人にありますまい。もっとも、教祖というものがある。これはその道のプロだ。そしてキチガイの関係に属するものだが、一般の夫婦円満の根柢にも教祖と信者的な持ちつ持たれつの信仰の一変形はあるかも知れない。
大詩人だの大音楽家だのと云ったって、その他人にすぐれているのは詩と音楽についてのことで、ナマの現身《うつしみ》はそうは参らん。現身はみんな同じこと。否、現身に属する美点欠点にも差はあるだろうが、それは詩や音楽の才能と相応ずるものではありません。
菊乃さんは越後長岡の半玉時代に先生の酒席に侍って一筆書いてもらった。それを十七年間肌身はなさず持っていたが、近年宴席で先生に再会し、結ばれるに至ったという。まことに結構な話で、そのまま先生の晩年が死に至るまでそうであるのも結構であるが、その平穏円満な生活のうちにも菊乃さんが、なんとなく自殺してしまったとしても、別にお二人のどちらが悪人小人だということにもならない。人生はそういうものだ。二人の人間が互に善意のみを支えとして助け合うつもりでも、破綻はさけがたい。人間は悲しいものです。
半玉時代にいただいた一筆を十七年間も肌身はなさず持っている。十七年目の再会に、それが二人を結ぶ縁となった、ということは不自然ではない。何の縁がないよりも、何かの縁があった方が結ばれ易いのは自然であるが、それは二人を結ぶために縁となる力はあっても、結ばれて後にはもはや何物でもない。あとは二人の現身があって、よりゆたかなたのしい生活のために協力しあう現実があるだけのことだ。
半玉時代の宴席でもらった一筆を肌身はなさず持っている、ということは、それを縁とするには結構だが、その後の二人の結婚生活を根柢的に支えているのがそれだという考えが当事者にあれば、はなはだ危険なことでもあろう。
こういう縁はノロケや冗談としては結構である。そんなノロケをきいても、別に誰も怒りやしない。先生も甘いなア、とか、しかし円満で結構だ、とか、その程度であれば、それは人間一般のことだ。
しかし、それが絶対の宿命というように考えられ、まるで日本の神話のように、伝説ではなくて事実よりももっと厳粛な天理であるというように考えられると、その天理をいただく軍人指導者とただの庶民との距りと同じものが必ず生れてくるものです。神がかりの軍人指導者は一億一心ときめこんでいますから、弱い庶民は表面はそれに逆らえず、彼我の距りを隠してついて行く以外に仕方がないようなものだ。菊乃さんの場合は、自分の方から十七年間云々の伝説をきりだした以上、戦争時代の庶民以上に間の悪いハメで、かかる菊乃にめぐりあうのも先妻節子のみちびきであろう、なぞと先生の説が飛躍しても、一言もない。
だいたい一人の半玉が、宴席に侍って書いてもらった漢詩かなんかを肌身はなさず持っていた、というのは、美談とは申されないな。肌身はなさず、ということがすでに異様で、詩や詩人を愛すことはお守りとは違うのだから、肌身はなさず持つということが決して正しい尊敬の仕方だとは思われないが、事実肌身はなさず持っていても異様だし、事実はそうでなくとも、肌身はなさずと云わねばならぬ雰囲気がすでに異様なのであろう。
菊乃さんがどれだけの漢学の素養があるのか知らないが、よほどの素養があったとしても、要するに先生のファンだということであろう。私のような三文文士でも宴席で先生のファンですというような芸者に会うことは稀れではない。肌身はなさずなどとゾッとするようなことを言われたことはないが、枕頭の書、誰より愛読しています、というようなことを言われることも無くはなかった。私はヒネクレているから、そういうことから、どうなったこともないが、太宰治の心中の場合はそういうことから始まったようだし、その他、師弟が恋仲になって心中したり、古い女房と別れて同棲したり、それが更に破れたり、大変なケンカになったり、また終生円満平穏の家庭がつづいた場合もむろんある。いろいろ場合があった。菊乃さんの場合はその一ツの変形であろう。
私は事実を知らないから想像にもとづいて云うのであるが、先生から書いてもらったものを十七年間肌身はなさず持っていたというところを見ると、これが小説の場合だと先生のファンだとハッキリ云うところだが、漢詩だと読めないのだからファンだとも云えない、そこで十七年間肌身はなさずというような表現になったのではないかと思うが、十七年間肌身はなさず持っているということよりも、その作品をよんで、十七年間、他のどの作家よりも愛読している、という方が、はるかに作者に身ぢかいものだろうと思う。
読者にもいろいろある。しかし、他の誰にも増して一作者に近親を感じ、その全作品を暗記するまでに愛読している。それにちかいような読者がかなり居るものである。しかし我々がそういう読者に会っても別に宿命とも感じない。そういう読者に比べれば、酒席で書いてもらった一筆を十七年間肌身はなさず持っていたということは決して宿命的なものでもないし、本当に心が近寄っているアカシでもなかろう。むしろ異様で、妖しいよ。本当の愛読者も、もしも愛読する作家の筆跡を手に入れれば、肌身はなさずは持たないだろうが、大切に保存することは言うまでもなかろう。そういう例は少くはないが、現代作家の多くは作家対愛読者のありふれた現象とみて、それを宿命的なものだという風には解さないのである。
時には愛
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