に彼女を殺していたのでも分るではありませんか。可憐な、いじらしい死ですよ。しかし、明るいね。菊乃さんは誰も恨んではいないだろう。そして、先生、さよなら、と一言、言いたかったろう。
先生は自分の後からついてくる筈の菊乃さんがそッとおくれて海中へはいって死んだのを知らずに歩いていた。お寺の前を通ると読経の声がきこえたので、先生もふと黙祷した。するとお寺の内儀がでてきて茶にさそったそうですね。
先生はそれを菊乃さんの死の時刻と判じ、霊の知らせと云っていますが、私もあるいは然らんと思います。そう思ってよいほど、死する菊乃さんの心事は澄んでいて、ただ親しい思い、なつかしい思いをよみがえらせ、心からの別離の言葉を先生におくりたかったろうな、と想像するのです。死に至る原因は、一に先生の無邪気な愛情やウヌボレに対する反感や憎悪であったにしても、すべての悲しさを死にかえて、われ一人去れば足ると見た人が死ぬときに、誰を恨む筈もない。むしろ一途の愛情となつかしさと感謝にあふれる一瞬があった筈だ。まさに死せんとする一瞬に。
先生は自分の善意だけで、また己がいたわりと愛情を知るだけでしたが、まったく悪意が
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