とうのは気の毒でまったく旧来の陋習である」と先生はいたわって仰有るが、前文はそのイタワリが形骸にすぎないことを悲しいほどハッキリ表しているではありませんか。同一人物の結びつきが、数年前の自分には罪悪であるが今はそうでないという。身分ちがいであるが有難く思え、ということゝ端的に同一で、先生が某大名の子孫の謡曲の相手に招かれ、菊乃さんがそれに同行したことを記して、
「越後長岡出身の賤《しず》の女《め》が、旧藩主の御同族なる旧田辺藩主より私と同行する様に求められるに至っては、晩香の名誉この上もなく、死して瞑すべきである」
 とある。ここまで読み至って、私はまったく暗然、救われないほど、やりきれなくなってしまった。菊乃さんがこの生活に満足し、なんの不足もある筈がないと先生が仰有ったって、そんなことをマトモにきけるものではありません。この一文をよめば彼女が自殺したことには何のフシギもない。それが先生にお分りでないようだから、救いがないのである。
 現職の教授が芸妓を女房にするのは名教の罪人だと仰有るけれども、こういう考えの人が芸者を女房にすることが罪人なのだ。
 二人の結びつきは「恋愛の遊戯では
前へ 次へ
全28ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング