て正しい尊敬の仕方だとは思われないが、事実肌身はなさず持っていても異様だし、事実はそうでなくとも、肌身はなさずと云わねばならぬ雰囲気がすでに異様なのであろう。
菊乃さんがどれだけの漢学の素養があるのか知らないが、よほどの素養があったとしても、要するに先生のファンだということであろう。私のような三文文士でも宴席で先生のファンですというような芸者に会うことは稀れではない。肌身はなさずなどとゾッとするようなことを言われたことはないが、枕頭の書、誰より愛読しています、というようなことを言われることも無くはなかった。私はヒネクレているから、そういうことから、どうなったこともないが、太宰治の心中の場合はそういうことから始まったようだし、その他、師弟が恋仲になって心中したり、古い女房と別れて同棲したり、それが更に破れたり、大変なケンカになったり、また終生円満平穏の家庭がつづいた場合もむろんある。いろいろ場合があった。菊乃さんの場合はその一ツの変形であろう。
私は事実を知らないから想像にもとづいて云うのであるが、先生から書いてもらったものを十七年間肌身はなさず持っていたというところを見ると、これが小説の場合だと先生のファンだとハッキリ云うところだが、漢詩だと読めないのだからファンだとも云えない、そこで十七年間肌身はなさずというような表現になったのではないかと思うが、十七年間肌身はなさず持っているということよりも、その作品をよんで、十七年間、他のどの作家よりも愛読している、という方が、はるかに作者に身ぢかいものだろうと思う。
読者にもいろいろある。しかし、他の誰にも増して一作者に近親を感じ、その全作品を暗記するまでに愛読している。それにちかいような読者がかなり居るものである。しかし我々がそういう読者に会っても別に宿命とも感じない。そういう読者に比べれば、酒席で書いてもらった一筆を十七年間肌身はなさず持っていたということは決して宿命的なものでもないし、本当に心が近寄っているアカシでもなかろう。むしろ異様で、妖しいよ。本当の愛読者も、もしも愛読する作家の筆跡を手に入れれば、肌身はなさずは持たないだろうが、大切に保存することは言うまでもなかろう。そういう例は少くはないが、現代作家の多くは作家対愛読者のありふれた現象とみて、それを宿命的なものだという風には解さないのである。
時には愛読のあまり作家を師とも神とも恋人とも思いこむような婦人愛読者が、作家の作風によってはあると思うが、その結果、恋となり、結婚となっても、うまく行くとは限らない。大そう憎みあってケンカ別れとなった例もあったようだ。そしてそれもフシギではない。
菊乃さんがそれほどの愛読者だとは思われないが、愛読者であってもなくても、要するに十七年間肌身はなさず、というようなことは酒間のノロケには適当かも知れんが、それ以上に考うべきことではなかろう。それを機縁として結びついたにしてもそれは機縁となったことで役割を果し了り、後日まで残すべきことではないのである。恋愛や結婚生活にとってノロケのほかには伝説や神話は介在すべきものではない。伝説や神話はノロケでしかないということはそれほど実人生は厳しく、厳粛なものだということだ。配給された花聟花嫁を絶対とみる以外に自由意志のなかった昔の人々とちがって、恋の一ツもしてみようというコンタンを蔵している人間というものは人形とはちがう。心の裏もあれば、そのまた裏もあるし、その裏もある。悪意によって裏の裏まで見ぬくのは夫婦生活としては好ましくないが、相手のために献身的であろうとして裏の裏まで見てやる、相手を知りつくす、ということは何よりのことだ。塩谷先生は悪意はなかった。むしろ善意と、献身的な気持で溢れていたようだ。けれども、自分の美化した想念に彼女を当てはめて陶酔し、彼女のきわめて卑近な現実から自分の知らない女を発見したり、彼女の心の裏の裏まで見てやりはしなかったようだ。先生は彼女を詩中の美女善女のように賞揚して味っていたが、詩中の美女善女のような女は現実的には存在しないものである。
現実的な人間は、もっともっと小さくて汚く、卑しいところもあるものである。それは肉慾の問題、チャタレイ的なことのみを指すものではありません。肉慾などよりも、精神的に甚しい負担が彼女にかかっていて、彼女はジリジリ息づまるように追いつめられていたのではありますまいか。それは詩の中の最上級の美女善女に仕立てられた負担であった。もっと卑しくて、汚らしくて、小さくて、みじめなところ、欠点も弱点も知りつくした上で愛されなくては、息苦しくて、やりきれまい。
★
塩谷先生は菊乃の欠点もよく知っていた、全てを知った上で、彼女を美しきもの良きもの正しきものと観じて愛し
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