イではないようだ。
 誰が自殺するか、見当がつかないものだ。私が矢口の渡しにいたころ、近所の老夫婦が静かに自殺していた。小金があって、仲がよくて、物静かで、平穏というものの見本のような生活をしていた人である。子供がなかった。世間的に死なねばならぬような理由は一ツもなかったらしいが、すべてを整理し、香をたいて、枕をならべて静かに死んでいたそうだ。
 塩谷先生は菊乃さんが自殺したと説をなす者を故人を誣《し》いるものだとお考えのようであるが(同氏手記「宿命」――晩香の死について――週刊朝日八月十二日号)誰が自殺しても別にフシギはないし、自殺ということが、その人の、またはその良人の不名誉になることだとも思われない。
 浜辺に下駄がぬいであったということは、偶然死よりも自殺を考えさせるものであるし、殆ど水をのんでいなかったということは、思いつめた切なく激しいものによって、目当ての死に先立って死んでいた、そういう一途な思いつめたものを考えさせます。先生がたまたま通りがかりの仏寺の読経をきいて黙祷した。と、仏寺の主婦が現れて茶に誘ったという。それを菊乃さんの死の時刻と見、霊のみちびきと見るのは、あるいは然らん。死しても魂の通うお二人であったでしょう。しかしながら、菊乃さんに自殺の理由は甚だ多くあってもフシギではありますまい。平穏円満な生活の裏にも破綻は宿っているものです。彼女は神経衰弱気味であった由、これほど彼女の自殺を雄弁に語るものはない。
 アコガレというものは、一生夢の中にすみ、現実からとざされているから、そのイノチもあるし、人生の支えとなる役割も果す。アコガレが現実のものになるのは危険千万で、誰かがアコガレの対象とあった場合に、他人のアコガレを現実的に支える力はまず万人にありますまい。もっとも、教祖というものがある。これはその道のプロだ。そしてキチガイの関係に属するものだが、一般の夫婦円満の根柢にも教祖と信者的な持ちつ持たれつの信仰の一変形はあるかも知れない。
 大詩人だの大音楽家だのと云ったって、その他人にすぐれているのは詩と音楽についてのことで、ナマの現身《うつしみ》はそうは参らん。現身はみんな同じこと。否、現身に属する美点欠点にも差はあるだろうが、それは詩や音楽の才能と相応ずるものではありません。
 菊乃さんは越後長岡の半玉時代に先生の酒席に侍って一筆書いてもらった。それを十七年間肌身はなさず持っていたが、近年宴席で先生に再会し、結ばれるに至ったという。まことに結構な話で、そのまま先生の晩年が死に至るまでそうであるのも結構であるが、その平穏円満な生活のうちにも菊乃さんが、なんとなく自殺してしまったとしても、別にお二人のどちらが悪人小人だということにもならない。人生はそういうものだ。二人の人間が互に善意のみを支えとして助け合うつもりでも、破綻はさけがたい。人間は悲しいものです。
 半玉時代にいただいた一筆を十七年間も肌身はなさず持っている。十七年目の再会に、それが二人を結ぶ縁となった、ということは不自然ではない。何の縁がないよりも、何かの縁があった方が結ばれ易いのは自然であるが、それは二人を結ぶために縁となる力はあっても、結ばれて後にはもはや何物でもない。あとは二人の現身があって、よりゆたかなたのしい生活のために協力しあう現実があるだけのことだ。
 半玉時代の宴席でもらった一筆を肌身はなさず持っている、ということは、それを縁とするには結構だが、その後の二人の結婚生活を根柢的に支えているのがそれだという考えが当事者にあれば、はなはだ危険なことでもあろう。
 こういう縁はノロケや冗談としては結構である。そんなノロケをきいても、別に誰も怒りやしない。先生も甘いなア、とか、しかし円満で結構だ、とか、その程度であれば、それは人間一般のことだ。
 しかし、それが絶対の宿命というように考えられ、まるで日本の神話のように、伝説ではなくて事実よりももっと厳粛な天理であるというように考えられると、その天理をいただく軍人指導者とただの庶民との距りと同じものが必ず生れてくるものです。神がかりの軍人指導者は一億一心ときめこんでいますから、弱い庶民は表面はそれに逆らえず、彼我の距りを隠してついて行く以外に仕方がないようなものだ。菊乃さんの場合は、自分の方から十七年間云々の伝説をきりだした以上、戦争時代の庶民以上に間の悪いハメで、かかる菊乃にめぐりあうのも先妻節子のみちびきであろう、なぞと先生の説が飛躍しても、一言もない。
 だいたい一人の半玉が、宴席に侍って書いてもらった漢詩かなんかを肌身はなさず持っていた、というのは、美談とは申されないな。肌身はなさず、ということがすでに異様で、詩や詩人を愛すことはお守りとは違うのだから、肌身はなさず持つということが決し
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