なくて、切実なる老後の生活問題である」と仰有る。切実な老後の生活問題とは、
「結髪の妻節子を喪ってから、長男夫婦の世話になって居たが、偶々《たまたま》病に臥してからつくづく、世話人なしでは老境を過せないと感じた。いかに舅思いの嫁でも、主人に仕え、幼児が二人もあっては、下婢を使うことのできない今日では、私の世話まですることは到底やりきれない。困って居る処へ、二三の人より熱心にすすめられ、終に晩香と結婚するに至った」(週刊朝日の手記より)
 切実な老後の生活問題という意味は、たしかに、そうであったろう。行く先不安な老人にとって一人ということは堪えがたい怖れであるに相違ない。切実な生活問題というその切実さは、老境に至らぬ私にも容易に想像し同感しうるのである。
 先生は籍を入れようとしたが、菊乃さんが辞退したそうである。先生の気持は明かに正妻であって、菊乃さんをそのように遇した。そして、菊乃さんが末期の水をとってくれるというので先生は安心し、生活は安定をうるに至ったという。
 それらは全て結構である。私とても、身寄りにそのような老人がおれば、再婚をすすめるかも知れない。
 先生の老境にある者の切実な生活問題という言葉からは、正妻とか、伴侶というものよりも、侍女、忠実な侍女、という意味が感じられるが、それであっても別に不都合ではなかろう。忠実な侍女が切実に欲しいという老境の切実さは同感せられるのである。むしろ、今さら正妻というよりも、侍女。実質的にそういう気持が起り易かろうと想像される。
 永井荷風先生も似たような立場であるが、もしも荷風先生が伴侶を定める場合にも、たぶん正妻とか女房なぞと大ダンビラをふりかざすような言い方よりも、侍女を求めるというような心境であろうと思う。
 しかし、塩谷先生は、その心境の実質は侍女をもとめる、というようなものであったが、菊乃さんを得て後は、侍女どころか、正妻も正妻、まさに意中の恋人を得たかのようだ。これ、また、結構であろう。先生の知己ならずとも、これを祝福するが自然であろう。先生が菊乃さんに甘いのも、大いに結構。門下を前に大いにのろけ、それを門下ならざる私が見ても不都合どころか、むしろ大いに祝福の念をいだいたであろう。
 先生は晩酌をやるにも、まず菊乃さんに盃を献じ、彼女に酒をすすめることを楽しむようであったという。まことに美しい心境である
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