たのだ。と仰有《おっしゃ》るかも知れないが、私はそうではないと思う。
先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ。たとえば軍人が、軍人精神によって、一人の兵隊をよき兵隊として愛す。ところがこの兵隊はよき軍人的であるために己れを偽って隊長の好みに合せている。その好みに合せることは良き軍人ということにはかのうが、決してよき人間ということにはかなわない。彼自身が欲することは良き人間でありたいということで、良き軍人ということではなかったのだが、この社会では軍人絶対であるから、どうにもならない。独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられないのである。
それと同じようなものが、先生の場合である。週刊朝日の「宿命」という先生の手記には、人形でない人間には堪らないと思われることが書いてあります。
先生は菊乃さんが芸者であったということに大そうイタワリをよせていますが。
「私が現職(註、大学教授のこと)であり晩香(註、菊乃さんのこと)が花柳界に籍を置くならば、名教の罪人でもあろうが、私は既に教壇を退き晩香も一旦人の正妻となり離婚後であった」
とある。すぐその後につづけて「いつまでも元芸者が附きまとうのは気の毒でまったく旧来の陋習である」と先生はいたわって仰有るが、前文はそのイタワリが形骸にすぎないことを悲しいほどハッキリ表しているではありませんか。同一人物の結びつきが、数年前の自分には罪悪であるが今はそうでないという。身分ちがいであるが有難く思え、ということゝ端的に同一で、先生が某大名の子孫の謡曲の相手に招かれ、菊乃さんがそれに同行したことを記して、
「越後長岡出身の賤《しず》の女《め》が、旧藩主の御同族なる旧田辺藩主より私と同行する様に求められるに至っては、晩香の名誉この上もなく、死して瞑すべきである」
とある。ここまで読み至って、私はまったく暗然、救われないほど、やりきれなくなってしまった。菊乃さんがこの生活に満足し、なんの不足もある筈がないと先生が仰有ったって、そんなことをマトモにきけるものではありません。この一文をよめば彼女が自殺したことには何のフシギもない。それが先生にお分りでないようだから、救いがないのである。
現職の教授が芸妓を女房にするのは名教の罪人だと仰有るけれども、こういう考えの人が芸者を女房にすることが罪人なのだ。
二人の結びつきは「恋愛の遊戯では
前へ
次へ
全14ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング