になる、という穏当適切なものではなく、よくも読まずに、途中の一行だけをその前後から切り離してとりだしてインネンをつけたり、誤読を基にして悪口雑言を浴せたりなさる。
今回の場合、宮本竹蔵先生のお叱りを蒙った平林たい子さんの文章は、どこかの新聞の文芸欄の一隅にのった追悼文で、せいぜい原稿紙二枚ぐらいの短文である。ところがそのたった八百字ぐらいの短文すらも精読を欠き、相手の意あるところを読み誤って、勝手にきめつけていらッしゃる。前掲の両者の文章は一字も省略しておらぬ筈ですから、どうぞ皆さん御自身でも吟味してみて下さい。たった原稿紙二枚の文章ですら、このように精読を欠いているのですから、長い文章に至っては誤読誤解の甚しさは申すまでもありますまい。
精読せずに批評するということは甚だしく不誠実なことで、文化人の至極当然な教養から云って日常の談話に於てもそれを慎しむのが当り前ですが、誤読あるを怖れるような慎しみはミジンもなくて、一行だけとりだしてそれを全文の本旨であるかに見立ててカサにかかってインネンをつけ悪罵を放つ。そのインネンのつけ方や、理窟の立て方に於てはユスリをやる者の論法に似て、用語や文脈の品性に於ても全くそれと同等の教養の低い文章である。それを第一面の匿名論説にかかげる新聞の品性というものは三流四流でもなくてゴロツキの赤新聞のようなものだね。東京新聞は、都新聞の昔には娯楽を主とする新聞であったが、その品性は相当に高くて、芸界のもつ教養や気品を失わなかったものでしたよ。そのころは私も匿名批評を書いてナニガシの飲みシロを稼がせてもらったものだが、私に関する限りは匿名批評に於ても、精読を欠いたり、タンカのような悪罵や放言をしたことはありませんでしたね。匿名といえども批評である限りは節度もあれば秩序もある論理をはなれてはならぬものです。
平林さんの追悼文の全文を読めば、宮本竹蔵先生の誤読は判然とし、彼女の抗議が理に合っていることがわかる。つまり平林さんはジャーナリズムの酷使、ということを一応述べてはいる。しかし作家に過度の執筆を強いるジャーナリズムというものも、そのそばによってよくよく見ると、「どんらん飽くなき」という放恣なものであるよりも、出版資本の没落したくない焦躁として目に映る。日本に於ける大新聞以外の出版資本は他の産業にくらべて資本が少いから、無名作家や風変り
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