て反証をあげても、それを無力にする理由となりうる。
しかし泥足の証人がないということは、彼らが泥足であった証明にならないだけのことで、彼らは泥足でなかった、という反対の事実を証明する力はないのである。またタタミの足跡を消したという証拠があれば、足跡があったという反対事実を証しうるが、消したかも知れぬとだけでは、なぜ足跡がないかという証明にならない。ただ要するに、そこに足跡が残らぬ筈だという被告の言葉は一方的でそれを証明する力がないということであり、裁判官の心証が彼らを犯人とみる方に傾いておれば、彼らの反証は無力であると認定せられるであろう。
しかし、泥足の証人がないということは、泥足であったという被告の主張とその証拠の力に於て五分五分に対立しているだけのもので、泥足でなかったという確実な証人がでなければ本当に否定する力にはなり得ないわけだ。裁判官の心証によって、証拠の力が五分五分の一方へ傾くのは当を得たものではないね。しかし、浮浪者や窃盗常習者がヤミ屋を殺したというような極めて有りそうな事件では、被告に不利な心証の傾斜が加わり易いのは裁判官も人間であるからには有りがちなことで、誰しもオレは別だと云いたいでしょうが、却々《なかなか》もって。とにかく大いに反省用心して、常に慎重に傾斜を正しく考察を新にするような心構えがガッチリしていても傾斜し易いのが人情でしょう。
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小林大内が犯行を否認して自分らの当夜の行動としてのべている事柄の中から、犯人であるかないか、かなり明確に定めうるカギはあったと思います。彼らはその晩、農家から一俵盗みだし、袋に詰めかえて被害者宅へ持参したといい、結局、附近にすてられていた米のつまった袋が容疑の端緒となったのだそうですが、盗まれた農家も、俵の米を詰めかえた場所も実在しなければならぬ筈であるし、その反対に、被害者宅の貯蔵の米が何者かによって詰めかえられて運びだされた形跡があったか。最初の現場検視が厳重に細部に行きとどいていて、彼らの供述に応じて直ちに事実との照合が厳密になされたなら、彼らが被害者を殺した犯人ではない、という証明はそこからは直接に得られないにしても、盗んだ米を袋につめかえて売るために持参したという供述の真偽は得られたであろう。
そこまでの供述の真偽が決定すれば、すでにそのときからタタミの上の足跡の
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