。逃げずに、むしろ忠義をつくし、恩を返すべきだ、というのは殿様の方の論理で、また殿様から考えての美談佳話で、正常の論理から判断すれば、奴隷は主人に飼う能力がなくなれば逃亡離散するのが当然であろう。
 両者が人格を認め合い、二ツの人格の相互の愛情というものが家庭の支えとなっていたようなところは、この夫の手記からは見ることができません。
 この夫の場合だけに限りませんな。日本の亭主は、大方その傾向があると思いますが、日本の憲法や法律がどうあろうとも、日本の亭主の習慣的に育成された思想や感情やそれにからまる論理の現状に於ては、生活に困った場合に女房を働きにだしてはダメにきまっています。必ず家庭の破滅がそこから起るものと覚悟すべきであろう。そしてその破滅のモトは亭主の思想や感情や論理に内在していると見ればよろしい。
 日本の亭主は女房に対して殿様の位置にある。ご亭主関白という通りです。何が殿様であり関白かというと習慣的に育成された思想や感情や論理がそうなのであって、衣食住の実生活はそれに全然ともなっておらんから、まことにこまる。それでも、とにかく自分が働いて女房子供を養っているうちは、曲りなりにも亭主関白の超論理で女房側の正論を屈服させ、封じこめておくことができる。自分に生活能力がなくなって女房を働きにだしてしまえば、女房は家庭の超論理から解放されて、自分の論理をうるのは当然ですよ。
 だから亭主関白の論理の現状に於て、生活に困って女房を働きにだすということは、家庭の破滅の決定的なモトをなすものですよ。おまけに亭主関白の側から云わせると、亭主が困った時には、女房が働いて亭主につくすのが当然だというような考えもあるから、尚いけない。のみならず、女房が世間へでて働いてみると、家庭生活がいかに暗くてツマラナイものか、それがハッキリ分るのが尚いけない。特に彼女の現下の家庭というものは彼女のヤセ腕にすがるような暗い惨めな生活であるから、世間にでて働くたのしさや面白さが身にしみるでしょうね。
 ちょッと考えてみれば、分りすぎるぐらいよく分ることですよ。日本の家庭感情の現状に於ては、生活に窮すれば窮するほど男はわが一人の腕で一家を支え、亭主関白たる貫禄を実力的に保持するために全心全霊をあげて悪戦苦闘すべきであって、コンリンザイ生活のために女房を働かせてはなりません。
 むしろ、生活苦のためではなく、お金に困らない場合に、女房を働かすべきです。自分の仕事の助手とか、共同の仕事とか、そういうことで奥さんに手腕をふるってもらうのは却って家庭平和のモトをなすかも知れません。女房が家庭生活一方というのは、そういう家庭的な性格の奥さんならよろしいが、社交家で家庭外の方向に手腕もあるし、家庭生活だけではなんとなく物足りないという性格の奥さんには、はじめからそういう手腕を外部的にふるってもらって、それで浮くお金で女房の家庭労働を省くようにするのですな。二人で外で食事するようにしてもよろしいし、手数の省ける家庭用の文明器具をとりそろえるように心がけてもよろしいでしょう。そのような明るく便利な家庭を建設するような考えがあって、奥さんもともに働くというようなことは、よろしいな。お金持であればあるほど、むしろ奥さんは働く方がよろしかろう。
 生活が苦しい時に奥さんを働かすことは絶対にやってはダメです。苦しい時に働いて助けてくれないようなそんな女房はひどく不自由で、実に女房なんて物の役に立たなくてバカバカしいものじゃないか。実際バカバカしいものなんですよ。つまり困った時に役に立つというような飼主的な亭主関白の独善的な論理や倫理が、結局、アベコベに、困ったときに役に立てようとすると破滅をもたらすことになる。その決定的な因子をなしているのですよ。困った時の役に立てようと思って女房を働かせると、女房が発見するのは亭主の独善的な論理の陰に隠されていた自分の論理と、それから世間の面白さ自分の家庭の暗さであります。
 働きにでた女房が彼女の論理を発見するような結果になったときには、日本の男の子は自分の腕で生活を支えられなかった責任を感じるのが第一に大切なことで、一家心中ムリ心中などと云うようでは、全然ダメだなア。女房を派出婦にする代りに自分の方がどんな賤業についても一家を支え亭主関白の貫禄を支えるべきであった。アア、我アヤマテリ、と思いなさい。日本の夫婦は男女同権ではありませんとも。憲法や法律はどうあろうとも、生活の実情に於て亭主関白、飼主の特殊な論理や倫理は亭主側にあって、それで威張っているのだから、飼い女房を働きにだして逃げられたら、それは自分の力で生計を維持して飼主の実力を維持できなかった自分の責任であるから、アア、我アヤマテリ、罪は男の子たる自分にのみありと認めなさい。こういう
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