す。
夫が失職して生活できないから、妻がダンサーになった、女給になった、という。こういうことが原因で一家の平和がメチャクチャになるような話は昔から山ほどあったものですね。この夫が考えているような通念からみれば、接客業というものは最低以下の職業ですが女房をそういう最低以下の地位に落して稼がせるぐらいなら、男の職業がない筈はありませんよ。女房にそういう仕事をさせても、自分の方は多少とも社会的地位のある職業でなければならんという考えが、かかる悲劇や家庭破滅の最大の原因をなしております。女房に地位の低い仕事をさせて(奥さんの仕事の地位が低いというのは私の考えではなくて実はあなたの考えなのだが、そのこともあなたはお気づきになっておらんだろうなア)自分は多少でも地位や身分のある仕事をさがして、そのために自分の方には勤め口が見当らん。そして奥さんの稼ぎで自分の生活もおぎなってもらっておりながら、自分の方では相変らず地位だ身分だというようなコダワリがあるとすれば、そういう妙な気位や威張りが、奥さんの目には実にバカバカしく妙なイヤらしいものに見えるのは当然だろうと思いますよ。
女房の奴メ、不貞だ、手討にいたす、というようなのは、あなたが殿様かなんかで、奥さんにゼイタクをさせて飼い犬のように不自由なく飼っておった場合に、わが意に反することをするといってブン殴ることはできるかも知れんが、男女同権というような新憲法の時代でなくとも、女房をそういう働きにだす以上は、もう女房はないものと思わねばなりません。男の地位や身分をまもるために妻女が最低の地位に落ちて稼ぐというのは、すでにその一家には通常の論理が失われているということを意味しておりますね。その一家が通常の論理の上に安定しているためには、まず男の方がどんな地位の低い仕事についてでも、真ッ黒になってボロを着て指は節くれて掌に血マメが絶えなくとも、男が一家の生計を支えねばなりません。夫に妻の不貞を咎め制裁する権力がないとは何事であるかというような論理を支えるには、さらにその上に、あなたが殿様で犬を飼うように何不自由なく女房を飼っていてのことだ。私は法律だの憲法を云っとるのじゃありません。そういうものではなくて、日本人の通常の家庭生活において、その旧来の習慣をひっくるめ、さらに社会環境をひっくるめ家庭の外部と内部を通観した上で、一家の支えとなる論理について云ってるのです。
編輯部から持ってきた今月の出来事の中で、一ツ、こんなのがありました。結婚以来三十年という老夫婦、二人の息子が二十九、二十四という大人になってる家庭で、父に金ができたら女遊びをはじめて愛人ができた。母に同情した息子が父を責めてポカポカぶん殴ったので、父は家を出て愛人のところで生活するようになった。息子はそこへも押しかけて行って父を十五か十六ぐらいポカポカぶんなぐったそうだが、息子の後援で母の方から離婚訴訟を起したという事件です。この訴訟を起した直接の原因は家出した父が養子を探しているのを探知した母と息子方の方が、このまま放置しておくと財産を養子にとられる怖れがあって、こうなったものらしい。
こういうように、実の息子が父の頭をポカポカ十五か十六もなぐるような暴力沙汰に及んで、もはや父と子の和解の道は得られない状態になっても、ここには財産というものがあるために、裁判によって解決の道が得られます。息子がオヤジを十五も十六もぶんなぐっても一家心中ムリ心中、オヤジ殺しなどに至らないのは、財産があって、それが愛憎を適当に解決してくれる見込みがあるからですね。
ところが、この投書の場合には、物質的に解決する手段がないですよ。父と息子のケンカは財産があることによって起ったような一面もあるかも知れませんが、投書の場合はアベコベに無一物であることから事が発しておって無一物であるために、論理的にも物質的にも両者を納得させる解決ができそうもない。したがって、誰が調停したって、結論は二ツしかない。夫が妻をあきらめて別れるか、妻が夫のもとへ戻って夫が生計を支える働きにつくか。
ところが、この夫の手記によると、妻の不貞を制裁できない民主国なら一家心中ムリ心中も辞せんと云うし、一方二人の仲にヒビができて不貞という観念が夫の念頭にからみついてしまったのに、芸者をやめて戻ってきた妻が夫に隷属する生活に堪えうるかどうか。この手記によって判断しても、まったくこの夫にかかっては妻は隷属ですからね。
法律で妻の不貞が制裁できないから、一家心中ムリ心中を考えるという、こういう性質の男は、たいがいの女房に逃げられる性質の男だろうと思いますよ。彼の思想や感情の上で、女房は奴隷にすぎないもの。奴隷は飼われているのだから、飼う能力がなくなれば主人から離れたり逃げるのは仕方がない
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