は。
しかし、夢の中ではハッキリ視覚的に彼と対面できるのですよ。だから、印象とか記憶というものは、視覚的にも身体のどこかにハッキリ残っているわけだが、夢と幻覚以外では視覚的に思いだすことが不可能だというわけですね。しかし夢も幻覚も意志によって見ることができないのだから、ハテサテ、人間の能力というものは窮屈なものだね。写真機よりも正確な現像能力があるくせに、自分の撮影したり録音したトーキーを頭の奥の部屋のヒキダシへ入れてカギをかけてしまいこみ、自分の意志でとりだして眺めることができないのだね。きわめて偶然に、夢やキチガイ状態の幻覚に際して見ることができるだけさ。
キチガイというものは自分の頭のヒキダシのカギをはずして、自分の撮した写真を眺めたり、過去と対面することができるらしい。その点に関する限りは、彼は不可能や不可思議を行っているのではなく、きわめて当然なことをやっているだけの話であり、普通の人間にはその当然の能力がないだけの話さ。つまりキチガイには夢と同じように空間に投影し、現像する映写幕があるのだが、普通の人間にはそれがないのだね。
健全な人間というものが、恐しくハンチクなものなのさ。当然あってしかるべき映写幕も蓄音機ももたない。キチガイは文化生活をしているらしいや。健全な肉体とは未開人のそれで、キチガイは文化人。芥川の河童かなんかが言いそうなことだね。もっとも、キチガイも自由自在に過去と対面できるわけではない。過去が、または相手の人物が、自ら映写幕に姿を現すのである。毎日きわめて規則的な時刻に。または唐突に。
とにかく人間には、空間の映写幕と同じように投影できるものが内在している筈なのである。しかし我々が健全に目をさまして生活している限り、それに記憶を投影して視覚で捉えることが不可能なのである。健全な人間の精神機能というものが、これぐらい頼りなく故障だらけのものであることが分れば、健全な精神というものは、あんまり恃《たの》みにならないものだということが明らかでしょう。もっとも、それを恃みにする以外に手はありませんね。河童の優位を認めるわけにもいきますまい。
第一、睡眠が変テコだね。妙テコレンなものが存在するもんですよ。我々は、とにかく毎日何時間ずつ完璧に過去も現在も忘失しつつありますよ。だいたい健全な人間というものが甚しく妙なものであるらしい。
山口さんの如くに過去を忘れて思いだせないということは、奇ッ怪フシギの如くであるが、実はそれほどのことではなさそうだよ。よくキチガイのことをゼンマイが狂っていると云うが、なかなか巧い表現だね。しかし、まだすこし表現が大ゲサにすぎると私は思うのです。実に一部のちょッとした故障でラジオが全的にきこえなくなったようなものらしいや。記憶を全部忘れるという結果は大きい変化のようだが、実は甚だ微々たる故障でそんなことが起っただけなんじゃないかね。
パチンコの機械が狂うと、パチンコ屋のオヤジが箱をトントンと叩くね。すると正常に返る。人間が狂うと、電気ショックやインシュリンショックをやる。つまりパチンコの箱をトントンと叩くようなものさ。パチンコ屋のオヤジはパチンコの機械の構造はよく知らないらしいが、トントン叩くとたいがい正常に返ることを知ってるのだね。精神病のお医者さんもそんなものらしいな。なぜ気が狂うかハッキリ分らないが、電気やインシュリンでショックを与えるとある種のものは正常に返るというようなことを心得ている。どうも、失礼。しかし、私は精神病のお医者さんをヒボーするつもりではないのです。要するに精神だの神経の作用や構造やネジのグアイなどが複雑怪奇すぎるという意味です。
私が一ツ気に食わないのは、ちかごろ潜在意識ということで、人間の心をむやみやたらに割りきりすぎるということです。人間の心を潜在意識に還元すれば、いかにも単純なものですね。下世話に、人世万事、色と金だという。これは慾望の方ですね。このほかに名誉だの力、才能などというものが、からむ。潜在意識の場合も同様で、これをめぐって人間同志のマサツがある。潜在意識というものは、公式的にハッキリしたもので、公式は万人に通用し、ただその人の生活史とか環境というものによって、組合せや脚色がちがうというだけで、根本の公式は変りがない。
そこで、ちかごろのある派のお医者さんは、病人の潜在意識をひきだし、生活史や環境やマサツを調べあげて、いともアッサリと病因を割りきる。
なるほど、そういう場合もたしかにあるでしょう。人間には苦労のタネというものがある。暴飲暴食が胃病のモトと知りつつ暴飲暴食して胃病になるのと同じように、苦労のタネにクヨクヨ悩むのがいけないと知りつつ神経衰弱になるようなこともある。フロイドは病人の潜在意識をひきだし、それを病
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