きて食事したり先生と対談したりしていましたが、覚醒して後は、それが全然記憶にないのですね。アミタール面接というのは治療じゃないから、こんなに長期に持続して眠らせるわけではないでしょうが、眠らせて対話するのは同じことでしょう。人間は催眠薬でねむりつつ、ふだんと同じように対話したり、多少の生活をしたりできるものですよ。そして目がさめると、それを記憶していないものです。私は目がさめて、たった一日ねむったと思ったら、新聞の日附が一ヶ月ちがっているので、だまされていると思った。もっとも、病院へ入院し、ねむる療法をするということを知らされていたので、やがて納得はできました。それ以前に、アドルム中毒の時にはそうとは知らないから、たった二三時間ウトウトしたつもりで目をさますと、三日も五日もねているのです。私はそれが信用できなくて、新聞の日附も郵便の日附もニセモノで、みんな人々が共謀して新聞偽造の手数をいとわず私をたぶらかしているのだと思いこんでいました。また、ねむりつつある時には夢の中でいろいろの行動をしていました。非常に現実的な行動をしています。それが夢だということが目がさめても分らない。どうしても眠る前に、今朝とか昨日とか、そういう行動をしていたとしか信じられない。つまりそれほど差しせまった現実的な夢ばかり見るわけです。たとえば友人に会って金策をたのんだり、女房が悪い病気になったと思いこんで(というのは、女房が病気になったと私に打ちあけた、それも実は夢だったが、私はそれを二年間も本当に女房がうちあけたことがあったと思いこんでいました)親しい医者のところへ治してやってくれと頼みに行ったり、借金を払いに行ったり、夢という夢がそういう身に差しせまったことばかりで、それが夢だという考えは全然心に浮ぶ余地がない。で、私がそれを人に語るとトンチンカンで、またオレをだますか、と、それでよく逆上したものであった。人々が共謀して私をだましているとしか思われなかったからです。どうも、これは健忘性のアベコベのような現象だね。夢の中で現実を生活し二ツが合一して区別がつかず、まったく完全に一ツの生活になっているのだからね。しかし、子供が眠りから目をさましたとき、時々こういう状態になるようですね。もっとも、すぐ気がつくらしいが。
 泥酔した翌日、ゆうべ酔ってしたことに記憶がなくて苦しむこともある。私は酔っ払って見知らぬ街へ歩きこみ、小さな酒場へはじめて行って、その女に惚れたことがある。翌日酔わずにその店を探したが、どうしても分らない。たしかに、ここの筈だが、と思って、同じ店を三度も四度もまちがえて笑われたことがあったね。その日はあきらめたが、泥酔して出かけると、きわめて自然にちゃんとその店へ辿りつくのである。泥酔しなければ、どうしても違った店へ行ってしまう。違い方もいつも同じだ。酔えば自然に辿りつく。何回となく二ツのことをくりかえしたことがありましたよ。そのうちに酔わなくとも行けるようになりました。お酒のみの方は思い当りはしませんか。
 ある時間の記憶を失ったり、酩酊というモーロー状態にならなければ辿りつくことができなかったり、精神病の状態と同じようなことを我々の日常に経験するのは決して珍しいことではないね。もっとも酩酊も一種の精神異状に相違ない。
 山口さんの場合は、失踪してから電話ボックスで記憶を失った時まで四ヶ月ぐらい経過しているようだ。失踪した時の精神状態、そして四ヶ月間の精神状態はどうだったのだろう。その時間に何をしたかということはアミタール面接でもハッキリとは分らないのか知らん。それが分って、その期間に彼と接した人の手記があると、素人にも何とか手がかりがあるが、この手記からは、てんで判断の仕様がありません。
 ただ、この手記から分ることは、彼の判断力はほぼ正常なものだが、電話ボックス以前の記憶だけが失われているということだけだ。
「判断力があって記憶だけないのは信じられん。ニセ病人だろう」
 と云った人が数人あった。別に信じられんことはない。我々の健全な時でも、ド忘れしたり、ちょッと記憶だけ霞んだりということはママあって、思いだそうと焦ってもなかなか思いだせないことは常時あることだ。我々の日常生活にそのキザシがあるということは、病気の際にはその完璧なものがありうるということで、人間の心の故障というものは、元来そういうようなものだ。もっとも、キチガイは必ずしも単純ではない。気が狂ってる最中でも色々と策をめぐらし、ひどくセチ辛い複雑な精神生活をしているもので、潜在意識的に一本の精神生活をしていると思うと大マチガイさ。
 山口さんの場合は、電気ショックでカンタンに治りそうだね。記憶喪失は一種の遁走のハタラキだと物の本などには書いてあるかも知れんが、現実から遁走
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