活をしていることの相違がある。この相違は甚しいけれども、意識を失う発端の状態はよく似ていて身につまされるから、あんまり良い気持はしませんね。
 山口さんは意識を失ったのち何かの職業についていたようだ。別人として何十日、何年間と生活している例は多いようだが、過去を失った瞬間をよく覚えていてそれ以前のことを思いだそうと努めているらしい山口さんは面白いね。もっとも、過去がどうしても分らなければ思いだそうとせずにいられないのは当然だ。その限りに於て、過去を忘れたということ以外は山口さんはほぼ普通の人間であり、生活能力者である。
 婦人患者の場合は、記憶喪失とともに子供にかえり(彼女は二十五であった)幼稚園児童のように折紙細工をしたり童謡をうたったりしていたそうだ。こういうのを児戯性というのかな。どちらもヒステリー的な神経障害とでもいうのかね。医学上の定義は私は知りません。
 ある過去へさかのぼって、たとえば二十年前の書生時代の上京しつつある状態にさかのぼって、東京へ、東京へと上京しつつある気持になっているような例も多いそうだ。
 しかし、これも人ごとではない。オレは普通の健全な人間だと云って安心してもいられないね。我々が前例の如くにフッと意識を失った瞬間に、ある過去の自分に逆行して、その継続をやりかけようとする瞬間がありはしませんか。やりかけようとする瞬間にたいがい気がついて、すぐ我に返るから、それだけの話ですが、それが長くつづく状態が病人で、時間の差があるだけだと思うと、よい気持ではないね。どうも、こんな話ははやく止めたいね。
 我々の可能性はすべて夢の中で起っているようです。どうしても過去が思いだせない状態なども夢の中で時々経験することの一ツですし、子供に還っていたり、また分裂病よりも甚しいフシギな経験を夢の中でやっていますよ。
 夢というものは奇怪なものだが、しかしフロイドの夢の解釈はあんまりコジツケがすぎるようだ。夢はあまりにも怪物ですよ。そうカンタンに解けますまい。
 親しい友だちの顔を思いだすことはできます。しかし視覚的に思いだすことはできませんね。なぜならただモヤモヤと思いだしたような感じがあるだけで、それを頼りに写生しようたって決してできますまい。もっとも、絵の天才は別かね。だが、彼とても、視覚的に思いだすということはできないと思うね。彼がキチガイでない限り
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