し、他人が危急に瀕しているような際に、わが身を忘れてとびこむようなことも、よくあるものだ。泳げないくせに人を助けに飛びこんで自分の方が溺れて死んだというようなのはよくあるね。これも、やっぱり逆上だ。ずいぶんたくさん人がいたのだから、三人や五人、こっちの方の逆上をやる人間がいても良かろうじゃないか。こっちの方の逆上をやった人間が完璧に一人もいないね。運転手に至っては、焼けていない電車のドアをあけることによって、ドアをあけるという責任を果していらア。ひどい間に合せ方があるものだよ。運わるくデクノボーどもが揃っていたのだね。すぐ近くたくさん人がいたのだから、犠牲者を三分の一ぐらいに減らす処置はできたろうに、そういう気転や善意が完璧に片鱗だにも見られなかったという奇怪さ。何より助からないのはこの奇怪さだね。なんとも救いがない。人間らしい頭脳のハタラキや、善意や、あたりまえの常識や、そういう平凡なちょッとした人間らしいものが、完璧にないじゃないか。戦争中の敵味方にだって、心の通じあうような出来事がチョイチョイあるものだが、この事件には、いささかも救いがない。一方、加賀山総裁は事件の報告をうけるとまずGHQへ行き、次に宮内省へ行き、キョウクおくあたわず、かね。天皇にわびて、どうなるのだ。笑わせるな。実に奇怪な人間どもにジッと見送られ無視されつつ、電車の人々は焼け死んだのだね。天皇のところへ、とるものもとりあえず、お詫びに参上という、実にどうも、上から下まで、どこにも人間が存在していないのだ。こんな奇怪な事件があるものかね。
 この婦人は女の身でよく助かったものだ。こんな時に助かる自信のある人間はいるもんじゃない。まったく、偶然、幸運、ラクダがハリの目をくぐるようなものだ。私のようなデブは第一あの三段窓はどうしてもくぐれないね。窓から乗降した経験も、生れて以来まだ一ぺんもないや。しかし私は治にいて乱を忘れずという要心深い人間だから、鋼鉄車にはさまれた木造車には決して乗りませんよ。すべてについて、その程度の要心は、酔っ払っている時のほかは忘れたことがない。しかし、桜木町事件は処置なしですよ。
 この御婦人も助かったのだから、わが身の幸多かりしことをよろこび、もって心の落着きをはかるべし。たまたま、どうも、ジャケンなツワモノにのみ遭遇して、後は甚だ間がわるかったんだね。先よければ後わ
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