小学校の先生だの妾だの百姓だのパンパンだの漁師だの商人だの飲食店のオヤジだの役人だのヤミ屋だの、みんな戦争を待機しているのである。今度は要領を覚えたから、戦争きたるやイの一番に大モウケしてみせるんだというみんなが同じコンタンで全面的に武者ぶるいしていらせられる。
 しかし、そう、うまくいきますかね。要領を覚えたのは、決して、あなたが一人じゃないや。みんな要領を覚えればみんな覚えないと同じことだし、すべて商法は、戦争のドサクサの泥棒的商法でも、新風を現す天才だけが大モウケするのさ。未来をのぞんで武者ぶるいするのは、すでに落第で、優等生はいつも現にモウケつつあるもんだね。
 しかし農村に戦争待望の黒雲がまき起っているのは、これも理のあるところだ。戦争がくる。食糧が不足する。さア、日本一の紳士淑女は百姓だね。東京も大阪も、あっちこっちの大小都会も、みんな燃えたね。アッハッハア。銀座が燃えたそうだが、ナニ、そうでもないなア。オレの村に銀座ができてらア。三井の娘が昨日米を買いにきたが、あいつも日増しに薄汚い女中みたいな女になりやがるねえ。品のねえ奴らだなア、都会の奴は。着る物がねえのかなア。イヤにペコペコしやがるけれども、ナイロンの靴下三足ぐらいじゃ五ン合のジャガイモは売れねえなア。オレンとこじゃア、今はピアノが三台だが、娘が二人だから、孫娘にも間に合うが、孫娘が二人できると足りないねえ。背広はもういらねえよ。モーニングもフロックも、もういらねえ、いらねえ。そうだなア、シルクハットがあったら持ってきなよ。この正月にチョックラかぶるべい。アッハッハア。
 戦争てえものは平和なものだ。米や野菜を大事にしなきゃアならねえてえことが人間にようやく呑みこめてくるなア。戦争がすんで、三年、四年ぐらいまでは、まだ平和だねえ。五年目から、いけないよ。都会の奴がアロハを着るうちはまだいいが、ギャバジンを着やがると、いけなくなるよ。都会の奴らがゼイタクになりやがると、日本はもういけねえ。世直しに戦争がはじまらなくちゃア、天下は平和にならねえな。
 糸へん金へんの現役紳士とても待望の論理は同じことである。あまねくドサクサの一旗をねらう市井の戦争待望組も論理に変りはない。
 しかし都会地の待望組は戦争の被害者で、焼けだされて産を失い、復讐戦の気構えであるから、境遇的に戦争を待望しても、たいがいは、本質的な好戦論者ではないのである。戦争のむごたらしさもだいぶ肌ざわりが遠のいたが身にしみてもいる。
 しかし、農村はそうではないね。彼らが身にしみて知っているのは戦争中の好景気だけで、戦争の酸鼻の相は彼らとは無関係なものだった。空襲警報もどこ吹く風、バクゲキなどはわが身の知ったことではない。
 したがって彼らが戦後の諸事諸相を咒《のろ》い戦時の遺制に最大の愛着をもつのは当然の話であろう。特に天皇制こそは彼らにとって至上のものであろう。戦争がはじまるまでは、農村にも相当の天皇蔑視派がいたものだ。彼らには都会や都会に附属するらしく見える一切の権威に反抗し否定する気風があったからである。
 しかし、今はそうではない。彼らは戦争によって天皇を発見し、天皇制が都会のものではなく自分たちのものであることを発見したのである。天皇が彼らにとって至上のものになったのは、むしろ戦争以来のことだ。
 しかし農村にも世界観の片鱗ぐらいはあるだろうと私は一人ぎめにしていたものだ。しかし、この手紙によると、この農村に於てはそうではないし、また、こういう事実をきいてみれば、いかにも同じようなことが多くの農村にあるべきようだ、という思いにもさせられるのである。やりきれない暗愚、我利々々の世界である。この手紙の中でせめてもの救いは、農村からの中傷にも拘らず、この青年の勤める本社が彼をクビにしないということだけだ。
 人のフンドシを当てにする思想は、最大の実害をもっているね。汝の欲せざるところ、これを人に施すなかれ、ということが形式的にでも通俗なモラルになると、世界の様相は一変して、なごやかになるね。
 再軍備が必要だという。そういう必要論者だけが兵隊にまずなって、まっさきに第一戦へかけつけることさ。村の発展は青年のギセイ的精神にまつ必要はない。ギセイ的精神の必要論者がまずギセイとなって、われ一人せッせとやりなさい。二宮尊徳先生がそうだったでしょう。その奉仕が真に必要ならば、やがて人がついてきますね。来なくっても、仕方がないさ。真にギセイ的奉仕が必要だと信じた人が、まず自分のみ行うのさ。人に強制労働を強いるのはナホトカからあッちの方の捕虜だけの話さ。
 よく働くことによってその人を尊敬し、それによく報いるという習慣が確立すると、社会は健全になるね。
 日本には人の労に報いる言葉のみが発達し、多種多様、実に豊富でありすぎるよ。そういう言葉は一ツでよいのだ。ただ「アリガトウ」さ。そして常にそれに相当の報酬をすべきである。何も靴ミガキに百円やることはないですよ。宿屋の番頭に千円もにぎらせることはないですよ。バカバカしい報酬はやるもんじゃない。
 物事はその価値に応ずべきで、労力もむろんそうだ。物質を軽んじ、精神を重んじるという精神主義によって今日の社会の合理的な秩序をもとめることは不可能だ。労働に対する報酬が生活の基礎なのだから、労働に対して常に適当に報われるという秩序が確立しなければ、他の秩序も礼儀も行われやしない。仕事に手をぬくような不熱心な働きには、それ相応の安い報酬でタクサンだ。よく熟練し、さらにテイネイでコクメイで熱心な労働に対してはそれに相当する多くの報いをうけるのは当然だ。報酬は義理でも人情でもヒイキでもない。常に適正な評価に従うべきだ。それが今日の秩序の基本をなすべきものですよ。その秩序が確立すれば、仕事への責任もハッキリする。その責任に対して物質的な賞罰もハッキリすべきものである。
 拾得物への報酬、一割か二割か知らないが、こういうものはどこに規準を定めても合理的な算定などはできないのだから、一割なら一割という規則の確立が大切だ。その報酬を辞退するのは美談じゃない。アベコベだ。物資の秩序をハッキリさせることを知らない人は、所詮不明朗不健全で、本当の精神の価値を知らないのである。
 物質、金銭は下品なものだという考えがマチガイなのさ。物を拾って届けるのは当り前じゃねえか、オレが一割もお礼やること、なかっぺ。なんでも、当り前なのさ。働くことも当り前。人を助けるのも当り前。親切をつくすのも当り前。そして、当り前のことに報酬するのも当り前のことなのさ。
 勤労に対する報酬という秩序がハッキリ確立すれば、村の発展は若い者の犠牲的奉仕にかかっている、などという美しいようで甚だ汚らしい我利々々の詭弁は許されない。誰かの奉仕が必要だと認めた当人が先ず自ら奉仕し黙々とギセイ精神を発揮すべきだ、という当然の結論が分ってくる。
 豊富な謝辞で労に報いてそれで美しくすますような習慣の下では、自分が人のために喜んでギセイになろうという生き方の代りに人のギセイでうまいことをしようという詭弁や策や、それをうまく言いくるめた美名だけが発達する。そしてアゲクには再々大東亜聖戦などということを国民のギセイに於て行うような神がかりの気チガイ沙汰へと発展して行くにきまってるのである。
 村の発展は青年のギセイ精神にまたねばならん、などと云うのは、どうせ中年老年どものクリゴトにきまっているが、ギセイの必要あらば、そういう御身らが曲った腰にムチうって自ら進んでギセイたるべし。ギセイというものは自発的になすべき行為で、人にもとむべきものではない。人に強要されたギセイは、ギセイとは別個のもので、人を奴隷と見ることだ。人の労に言葉で報いて美しくすますようなことも、根は同じく、封建、奴隷時代の遺風だ。物質を卑しみ、精神的なものを美しとするのも、人間を奴隷的にタダでコキ使うに必要だった詭弁にすぎないものだ。
 実際は、物質で処理しうるもの全て物質で処理する秩序が確立すると、本当に内容充実した礼儀やモラルが実生活の表面へハッキリ押しだされてくるのである。即ち、人の勤労には必ずそれだけの報酬せよという習慣が確立しておれば、村の発展は道路工事にあり、されど金なし、義人現れて奉仕せざれば村の発展なし、と分って、自ら先じて黙々と道路工事の奉仕に当る。真に村を憂うる者が黙々と村に奉仕するのは自然であり、かくて村政にたずさわり村を憂うる村長や有力者は自然に自ら義人となり、義人政治行われ、これぞ村のあるべき当然の姿ではないか。勤労に対しては必ずそれだけの報酬せよ、という秩序が確立することによって、アベコベに、真の義人が現れる基盤ができるのである。
「道路工事に義務人夫で出ろ。さもなければ茶菓子をだせ」などという暴力政治が、田舎では今でも行われているのですね。この青年が反抗するのは当然だ。真に日本を愛し、日本のより良く暮しよい国たらんことを願う者が、再びこのような暗黒な暴力政治におちこみつつある村政に反抗しなくて、どうしようか。口に大きな理想を唱え、天下国家を論じる必要はない。自分の四周の無道に対して抗争し、わが村の民主政治が正しかれと努力すれば足りるであろう。
 可哀そうな青年よ。君の村は、そんな悲しい暗黒な、暗愚な村なのかねえ。そのような暗愚や暴力に負けたまうな。村のボスなどと妥協したもうな。君の味方が、君の友が、僕一人である筈はない。
 日本の農村はひどいねえ。百姓ぐらい我利我利亡者で狡猾な詭弁家はいないよ。農村は淳朴だの、その淳朴な百姓こそは真の愛国家で、それ故に天皇を愛しているなどというのを真にうけていると、再び軍国となり、発狂し、救いがたい愚昧の野蛮国になってしまうばかりだ。
 しかし、とにかく、君の会社が村の策謀を尻目に、君をクビにしないのは、爽やかな救いを感じるね。ねがわくは、悠々と、正しく信念を貫いて、そして会社の仕事をシッカリやってくれたまえ。困ったことが起きたら、また、手紙をくれたまえ。



底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第六巻第五号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
初出:「オール読物 第六巻第五号」
   1951(昭和26)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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