安吾人生案内
その二 大岡越前守
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)赤烏帽子《あかえぼし》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)そも/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     男子は慰藉料をもらえないという話

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 婚姻予約不履行による慰藉料損害賠償請求事件の訴状
 中央区京橋八丁堀、吉野広吉方でクリーニング業に従っていた原告、羽山留吉は、昭和二十三年六月八日新堀仲之助氏の口ききで被告中山しづと見合の上新堀、吉野両氏夫婦の媒酌で、同年八月十九日三越本店式場で結婚式をあげ事実上の婚姻予約をなした。
 しづの姉婿、加藤律治氏は杉並でクリーニング店を営み、しづは同所に居住している関係上、羽山はしばらく同所でしづと同棲、仕事を手伝ってもらいたいと懇請され、長年の得意をすてゝ、その言に従った。
 挙式後、同夜は一回、夫婦の行事があったが、その翌日よりは、いかなるわけか、しづは羽山とは言葉を交えず、三晩後、しづは板の間でジュウタンをしき別に床をとって独寝し、羽山は重大な侮辱をうけた。羽山はしづの真意を解するに苦しむも、誠心誠意をもって、時には媚態を呈し、種々話しかけたが、しづは口をとざし、頑として答えなかった。
 羽山は万策つき、加藤律治氏にその由を打明けるなど努力したが、そのうちしづは「最初から羽山は好きではない、側からよいよいといわれ結婚しただけで、寝床を別にするのは子供が出来ないようにするためだ」と公言し、羽山との婚姻を破棄し、婚姻予約を履行せざることを確認した。
 羽山はしづの許に寄寓し、多くの得意を失った損害は実に甚大である。さらに、しづのため男子一生の童貞を破壊されたことの精神的打撃は言語に絶する。
 よって、物質上の損害は、金十万円、精神上の損害は慰藉料金二十万円に値いするものである。

 中山しづの姉婿、クリーニング業加藤律治の証言
 しづは私の家内の妹です。新婚後の住居については現在住宅難の時代でもあり、しづは一人で店の留守番をしているのだから、世の中のおさまりがつくまで、しづの所で働いた方がよかろうと申しました。
 しかし、しづは結婚前の交際の頃、二人で東劇へ行った時、原告は帽子もかぶらず、アロハシャツをきてきたので、いやであったとかいっていました。
 八月の終頃、羽山が猛烈な下痢をおこし、しづは感染してはまずいと思い、ジュウタンをしいて別に床をとって、寝たようですが、しづに夫婦関係はどうかとたずねたところ、ふつうにつとめているといゝ、そんなことは聞くものではないといわれました。しづは神経質で気に入らない時は私の顔を見るのもいやだというほどでした。
 羽山が家を出て後、吉野氏と羽山が一しょに参り、吉野氏は私を馬鹿野郎よばわりし三十万円出せといゝました。

 羽山留吉(当時三十歳)の供述
 結婚の当日、夫婦の交りを一回だけ致しました。その時、しづは男女の交りの経験はないようでした。また交りを結ぶに当って不同意を示したことはありませんでした。私はいままでに異性と関係したことはございませんが、夫婦の交りはできました。
 二日目しづは身体がわるいといゝ、床は二枚しき、交りを要求すると被告はさけました。(中略)私は父は亡く、母はあります。
 財産はありません.中山の方には財産もあり、たしか、山林があると聞いていました。しづが私の方へ来ればいつでも引きとります。

 中山しづ(当時二十九歳)の供述
 見合いの時、同じ商売だったので、相手は何もないけれど、結婚しようと思いました。
 挙式当日、羽山の義兄の家へ行ったところ、先方は少し酔っていて、
「男のバカと女の利巧はちょうど同じだ、生活力では男にはかなわないのだから、夫を大事にしろ」「亭主の好きな赤烏帽子《あかえぼし》という意味を知っているか」などといわれ、あんな風に私が侮辱されても、羽山は何ともいってくれないのかとさびしく思いました。
 結婚の最初の日は夫婦の交りをしました。二日目は一緒にねましたが、体の具合が悪かったので夫婦の交りは断りました。出血がひどく、はじめは夫婦の交りのためであると思っていましたが、それが五日ばかりつゞきましたので、月のものだとわかりました。私はそれまで男の人と交りをしたことはありません。私が別室にねたのは五日目位かと思いますが、それは羽山が下痢をしていたからです。(中略)仲人の新堀の奥さんがきて「羽山を好きかどうかそれだけ聞かしてくれ」といわれた時、私はこんな状態では愛情がもてないといゝました。羽山と話をもどすことは全然、考えていません。

 判決
「主文」
 被告は原告に対し、金三万円を昭和二十三年十月二十日以降、年五分の利息と共に支払うことを要す。原告のその余の請求はこれを棄却する。訴訟費用はこれを十分し、その一を被告の負担とし、その他を原告の負担とする。
「理由」
(前略)原告は本件予約を解除する正当の権能を有し、しかして、さらに原告は被告に対し損害賠償を求めることができる。右損害は金三万円と認定すべきものである。
 けだし、原告本人の供述によれば、原告はクリーニング請負によって月約三万円の収入をあげており、純益はその五割で、原告は本件婚姻予約のため、ほゞ二ヶ月休んで原業に復したることを認めることができるからである。
 原告は慰藉料金二十万円を請求しているが、慰藉料を請求し得るのは女子のみで、男子はこれを請求し得ない。これ、女子の貞操喪失すなわちその純潔の喪失に対する社会的評価と男子の童貞の喪失に対するそれとの相違にもとづくもので、これを同一に評価することは法律上妥当でない。
 よって、当裁判所は原告の本訴請求中、金三万円の損害賠償の部分を理由あるものとして容認し、その余の部分、および慰藉料請求は失当として、これを排斥する。(東京地方裁判所民事第一部、裁判官、安武東一郎)
[#ここで字下げ終わり]

 この判決に対して二三反対の言葉を新聞紙上で見た記憶がある。誰か女の人の側で、男女同権にもとるという意味の反対があった。男の貞操も認め男の子にも慰藉料をやるのが同権にかなうという意味であった。女の子ばかり貞操を要求されちゃかなわんというフンマンでもあり、よって男の子にも貞操を要求し欲しけりゃお金ぐらいくれて追んだしてやらアというケナゲな精神であるが、自分でお金を稼いでシコタマ握っている女の子がタクサンいるとは思われないが、どこから慰藉料をひねりだすツモリやら、みすみす損をなさることはありませんな。
 この判決は妥当であろう。裁判というものは理想にてらして行うものではなく、現実に立脚してやるものだ。裁判を理想にてらし、たとえば男女同権の精神にもとづいて、現実を無視してやったら、いろんな痛快な判決はできるだろうけど、その後始末がつかないでしょう。男の子は喜び勇んで我も我もと慰藉料を請求したいにきまっているが、女の子は払ってくれないね。
 日本の現実で考えて、まア大体に於て男の貞操にはたしかに値段がありませんな。性病の有無というようなことは結婚の支障となるかも知れないが、童貞であるか、ないか、第一、鑑定の仕様がない。しかし、ここに、お金持の姫君の聟たらんことを一生の願いとして日夜イナリ様に願をかけ親も息子も茶だち酒だちして学を修め芸を習いひたすらに良縁を待ちこがれているケナゲな一族があったとします。念願かなってお金持の姫君へ聟入りできたが、哀れにもあんまり気がはりつめたか翌朝から下痢を起して、姫君にいやがられ、再び同衾《どうきん》を許されなくなってしまった。そこで離婚訴訟となったが、かく戸籍に傷がついては、男は再び金満家へ聟入りすることができない。そこで失われた童貞に対して慰藉料請求となった。なるほど。こういう時には問題だね。童貞の値段は大アリかも知れん。
 このバカモノめ! 男のくせに自分の腕で食べようとせずに、金持のムコを一生の念願とするとは何事か! と叱るわけにもいかないね。男子たる者は金持のムコを望むべからず、という規則があるわけではない。聖賢の戒めの中には多少似た意味のことがあるかも知れんが、聖賢の戒めが凡夫の生活を律しうるなら、天下に法律などの必要はありませんさ。
 原告のクリーニング屋さんも、余は金持のムコたらんことを一生の念願とす。かく童貞の純潔を汚されては再び良家のムコたるあたわず。よって、慰藉料をよこせ、と申したてると、判事も若干おこまりだったかも知れん。慰藉料を請求しうるは女子のみにして、男子はこれを請求するあたわずと、簡単に断定するわけにはいかなかったであろう。
 もっとも、六法全書かなんかに、そんな規則があるのか知らん。私の書棚にはかつて六法全書などというものが存在した例がないので何も心得がないが、そんなに憲法の如くにきめてかかった規則はないでしょうね。このクリーニング氏の場合には、請求できなくとも、男の子だって慰藉料を請求しうる場合がある筈である。つまりこの判事氏は表現をあやまっている。このクリーニング氏の場合に於ては、と云うべきであって、男の子は、と全般的に言うべからざることではないかと思われる。
 だいたい裁判というものは、個に即して判定すべきものだ。女の子は、とか、すべて男の子は、とか、全般的に言いきるのは哲学者かなんかのやることで、裁判官のやるべきことではなかろう。普遍的な公理のようなものを仮設して、そこから一クリーニング氏の場合の結論をだすというのは、論戦の要領を心得た人間のやることではないね。彼の仮設した公理に攻撃をくらい、こういう場合はどうだ、こういう場合はどうだ、とやられると、一ツくずれただけでも、すぐ足元がぐらつくね。そういう危険な方法を用いて論証するというのは、論戦の初心家のやることで、そんな余計なことを云わなくとも、ただ一クリーニング氏の場合についてのみ判断すればよかったのである。私自身の見解を云えば、私もこのクリーニング氏は童貞を失ったということで慰藉料をせしめる理由がなかろう、と考えている。しかし、ほかの日本の男の子の全部がどのような特殊事情があっても慰藉料を請求できない、ということを、そんなに易々と結論しうるものではなかろう。
 だいたい、そんなに易々と全般的な結論がだせて、それで通用しうるなら、裁判の必要はないじゃないか。万事につけてそういう公式をこしらえて、それに当てはめて、これはダメ、これはよし、交通整理のようにスラスラ裁くがよかろうさ。
 原告たるクリーニング氏の場合はシカジカの様式であるから慰藉料請求は当らないと判決すればなんでもないものを、慰藉料をもらえるのは女子だけで、男子はもらえない、と男の子全部のことまでズバリと云われると、世間の人はハッとするのが当然だね。クリーニング氏の判決のついでに、男の子全部に判決を下してはチト迷惑だなア。男の子だって色々とあらア。
 裁判官というものは、どんなに予測しない事情のゴタゴタが起るか知れん、という前提に立って、常に当面するその物だけを相手に判断さるべきでしょう。すべてのゴタゴタがユニックでさア。公式が先立つわけには行かないでしょう。
 クリーニング氏は夫人方の親戚へ住みこんでそッちの家業を手伝っておるから日常は孤立無援で、おまけに嫌っているのは確かに夫人の方だから、まア聟が追んだされると同じような心境を味い、慰藉料ということを思いつくに至ったのであろうが、そのへんの心境は同情はできるね。失われた童貞に対する慰藉料というと、彼氏の場合は妙であるが、その日常のサンタンたる心事に対する慰藉料といえば、それが金銭に換算できるかどうかはとにかくとして、彼氏の悲しかりし結婚生活の日々については同情がもてるのである。彼を嫌った夫人に比べれば、そして身辺に味方のいる夫人に比べれば、彼の心事に同情がもてるのは当然だろう。
 夫人はいささかヒステリー
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