質的な好戦論者ではないのである。戦争のむごたらしさもだいぶ肌ざわりが遠のいたが身にしみてもいる。
しかし、農村はそうではないね。彼らが身にしみて知っているのは戦争中の好景気だけで、戦争の酸鼻の相は彼らとは無関係なものだった。空襲警報もどこ吹く風、バクゲキなどはわが身の知ったことではない。
したがって彼らが戦後の諸事諸相を咒《のろ》い戦時の遺制に最大の愛着をもつのは当然の話であろう。特に天皇制こそは彼らにとって至上のものであろう。戦争がはじまるまでは、農村にも相当の天皇蔑視派がいたものだ。彼らには都会や都会に附属するらしく見える一切の権威に反抗し否定する気風があったからである。
しかし、今はそうではない。彼らは戦争によって天皇を発見し、天皇制が都会のものではなく自分たちのものであることを発見したのである。天皇が彼らにとって至上のものになったのは、むしろ戦争以来のことだ。
しかし農村にも世界観の片鱗ぐらいはあるだろうと私は一人ぎめにしていたものだ。しかし、この手紙によると、この農村に於てはそうではないし、また、こういう事実をきいてみれば、いかにも同じようなことが多くの農村にあるべきようだ、という思いにもさせられるのである。やりきれない暗愚、我利々々の世界である。この手紙の中でせめてもの救いは、農村からの中傷にも拘らず、この青年の勤める本社が彼をクビにしないということだけだ。
人のフンドシを当てにする思想は、最大の実害をもっているね。汝の欲せざるところ、これを人に施すなかれ、ということが形式的にでも通俗なモラルになると、世界の様相は一変して、なごやかになるね。
再軍備が必要だという。そういう必要論者だけが兵隊にまずなって、まっさきに第一戦へかけつけることさ。村の発展は青年のギセイ的精神にまつ必要はない。ギセイ的精神の必要論者がまずギセイとなって、われ一人せッせとやりなさい。二宮尊徳先生がそうだったでしょう。その奉仕が真に必要ならば、やがて人がついてきますね。来なくっても、仕方がないさ。真にギセイ的奉仕が必要だと信じた人が、まず自分のみ行うのさ。人に強制労働を強いるのはナホトカからあッちの方の捕虜だけの話さ。
よく働くことによってその人を尊敬し、それによく報いるという習慣が確立すると、社会は健全になるね。
日本には人の労に報いる言葉のみが発達し、多種多様、実
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