し自制を失うことができるなら、という気持も必ずあるものだ。それには親に無実の罪を疑られ、そのことで口論してヤケを起して飛びだすような時が最上の機会であろう。なぜなら、とにかく親の圧力が最大のブレーキだから。ブレーキに押しつけられている願望は、なんとかして自然に、又は自然らしく、そして罪を他に転嫁しうる堂々たる口実を得てブレーキを外したいとひそかに待っているのだから。そういう少年少女の気持を理解できない親は子供を却って早く間違いに走らせる。第二話の娘の場合がそうである。子供が親に罪を転嫁すると同様、子供の親は厳格という型にはまった常識的な倫理観に安易にもたれて、自己の無理解、無智無能を転嫁している。子供は口実として他に罪を転嫁しても実は罪の意識に苦しむが、親は公定価格の修身の教えにもたれ、人からも自分からも罪を責められない。
さて少年は男の案内でアパートへ行く。部屋に男の上衣が吊るしてあるから怪しいと気がつきはじめたが、寝てみると本当に男だったので、ナメられてたまるものかと便所へ行くフリをして廊下でジャックナイフをひらいて、男娼を刺した。ブスッと手ごたえがあって変テコな声をだして逃げようとしたので、とっさに、また斬りつけたら大声でわめいて倒れたので、上衣とズボンをかかえて窓から逃げた。この辺の観察や記憶の角度は映画的である。彼は不幸な犯罪に対処して、追想するに映画の手法しか身についていなかったのかも知れん。しかし、とにかく、ここだけが甚だ映画的にリアリス的(山際さんの用語)である。映画は現代に於ける最大また有能の教育者ならんか。
あいにく私は巷談師らしくもなくオカマの宿を訪問した経験がないのは面目ないが、上野ジャングルを深更ちかいころ訪問してオカマの群れにはよそながら拝接した。概して彼らの特異性は視覚よりも聴覚にくるものがグロテスクで、一見して男と分らなくとも、声をきくとゾッと水を浴びせられた如く、汚く不潔な感に苦しめられる。オカマのグロテスクなのはその音声が最大なものだが、この少年が女を男と知るに至る経路、観察の角度が又、専一に視覚的で、部屋に男の上衣が吊るされていて怪しいと思いつく条《くだ》りなども映画的だ。まるで映画を見るように自分の現実を見たり構成したりしているのだが、実際その手法しか知らないのではないかと思われるのである。男の音声で、はてナと怪しむようなのは普通に映画のとらない手法だ。喋った言葉の内容から怪しみはじめる手法は普通に用いられるものであるが。
男の上衣が吊るされているので怪しいと思いはじめ、寝てみて男と分ったとは、どういう状況に至って確認したのか、まことに汚いこと夥しい話であるが、「たけくらべ」やスガンさんの山羊や、浄ルリのサワリから、いきなりここへ突入する表裏抱き合せの奇怪さ、一番キレイな幼いものと大人でも顔をそむける汚いものと一体をなしている筋書きが、あまりにも尋常を欠いて、非現実的、私流に言うと童話的というわけなのである。しかし天女と安達《あだち》ヶ原の妖婆と揃って一人の少年を成しているのは別にフランケンシュタインの一族一味ではなくて、日本の現実の一端であり、現代の少年少女の生態にはたしかに此のようなところもあるのである。彼や彼女らの無心に歩くところ、その門はどこにでも開らかれているのだから。
女だと思いのほか男である。だまされたから怒るのは自然で、これをただ黙ってヘラヘラ笑っておれば、その方が薄気味悪い話さ。しかし、怒ったから、いきなり刺すというのは一般の人のよく為しうることではない。家出、それに自殺という気分も若干つきそって甚しく悲愴に昂揚していた心事の際であっても、いきなり人を刺すことは多くの人の為しがたいところである。
だまされたと知ってイキナリ武器をとって報復を志すのは幼児の時はややそうであるが、小学校へ行くころとなれば罪の意識も芽生えて、少数のほかはイキナリ武器をとるようなことは控えるようになるものだ。大人は罰せられるから、益々もって、やれやしない。幼児と同じようにイキナリ武器をとって報復するのは、ただ国家というものがあるだけだ。国家に於ては、幼児にだけしか通用しない報復の理由が、戦争をひらく立派な理由になるのである。実にどうも国家というものは赤ん坊よりも理不尽なダダッ子、ワガママなギャングである。
だまされたと云っても、女だと思ったら男だったというようなことは、大人の世界では怒りに価するものではない。人生の表街道のものではなく、裏街ですらもなく、他人にそう邪魔にならない路傍か隅ッこにころがっていて、グロテスクではあるがバカバカしいだけの存在だ。こんな笑止な化け物にくらべれば、政界、官界、実業界、教育界、宗教界、文壇、学界、もっと妖しく実害のある大化け物は他のどこにでも見られることだ。ナイフが何万本あっても足りやしない。舌が三枚も五枚もある化け物など政界にいるが、そんなのも大した化け物ではない。十六年も生きていればオカマ以上の実害ある大化け物と交渉のなかった筈はないのだが、オカマには気がついても大化け物には気がつかないとは、頭の悪い少年だ。
世間には、大人の世界に無智不案内な子供が純でスレていなくて鷹揚だというような見方もあるのだが、何事によらず知らないということは賞讃の余地がないようだ。知ることと、行うこととは違う。利口な人間は知りたがるし、知っていて正邪を判じる力があり、敢て悪を行わぬところに美点はあるかも知れないが、単に知らぬということは頭が悪いというほかの何物でもなく、長じて知るようになると、純変じてどんなスレッカラシになるか分りやしない。純などゝいうのはつまらぬ時間の差で、しかも甚しく誤差の起りやすい要素をふくみ、わが子に対してそんな判断で安心していると、長じて忽然と妖怪化して手に負えなくなるのである。
満十六といえば、理解力はほぼ大人なみに成長しかけているものだ。この少年の人生の理解力は低く、いささか低能で、辛うじて映画によって人生を学んでいたようだ。手記の中にも、暗い気持で映画館をでて、ピースを一箱買ってみたが、まずかったというような描写が突然現れる。そういうところも映画的である。失恋か何かでアンタンたる気持の主人公がタバコを吸ってマズそうに捨てるような場面がホーフツとしている。そんなことよりも言わねばならぬ大切なことは他にタクサンありそうだが、そういうところはアッサリとばして甚しく場面的な情景描写にだけ念が入れてある。つまり映画的にしか自分の人生を回想できないのであろう。
低脳だから人を刺したが、理解力や判断力や抑制力はモッと生長するであろうから、長じて兇悪人物になるとは限らない。彼は家族たちに理解せられざることを悲しみ、孤独と観じ、人にだまされたのを怒ってはいるが、人をだまそうとはしていないようだ。低脳ではあるが、ヨコシマではない。人を刺すこと自体も、映画と自分の区別を知らずに模倣するほど低脳なのかも知れない。
しかし、これほど低能でも、自分を孤独とみる悲しさがあるのは、人間というものは切ないものだ。実際はこの少年ほど母の愛に恵まれている者はそう大勢はないかも知れないのだが、そのような判断は持っていない。しかし、母の愛情は知っているのである。愛されながら誤解したり、強いて愛されていないと誤解しようとするムキもあるから、それに比べれば、そうヒネクレてはいないのである。ただ自分を理解してくれない父や兄たちやアニヨメに重点をおいて、主として不満を軸としているのは甘ッたれた気持で、母の愛に傷められた甘えッ子の感多く、つまり低能であるが、これもヒネクレているせいではなくて、要するに甘ッタレだ。しかし、理解して貰えない切なさは、真実切なかった筈だ。どんなに幼くとも、低能でも、その切なさは万人の身にしみわたる悲しさで、変りのあるものではない。若いほど身にしみる悲しさかも知れない。とりわけそういう切なさをヒシヒシ感じる魂は幸福な魂ではないが、しかし、ヒネクレていることにはならない。いわば詩人の魂である。低能だから人を刺殺したが、魂はヨコシマではなかったのである。
殺人にも色々ある。正義とみて大官を暗殺し、わが身は正しいことを行ったと自負しているような低能もある。同じ低能殺人犯にも甚しい相違があって、この自称英雄が大官を暗殺する根柢には政論の正邪の判断がある筈だが、理論的に正邪を判ずるほど成人になっていながら、殺人という手段を選ぶ低能ぶりというものは、野蛮で悪質だ。少年の場合はだまされて千円とられたという理論のない直接のもので、つまり幼年の低能さだ。もっと智能が生育して、やや低能でなくなれば、そういうことは為し得ないであろう。同じように悪を憎み正義を愛すにも、自称英雄は政論の正邪を一人のみこみしたあげく殺人という事柄の正邪をさとらず、むしろ自分の行為を英雄的に自負しているほど生蕃《せいばん》的で文明人の隣人らしいところがないが、少年の憎む悪は素朴で直接的で、彼の愛している正しさも、生蕃の神がかり的な手前勝手のものではなくて、あたりまえの素朴な市井的な善ということであったろう。少年の低能ぶりは、やがてもっと低能ではなくなるだろうし、低能でなくなれば、という救いはあると思われる。崇高な殺人などを冷静に考える低能には救いがない。狂犬が正義を自負しているようなものであるが、こういう狂犬のたぐいでないと戦争を仕掛けてやろうなどゝは考えない。少年はもっと生長して低能でなくなれば、幼児の理窟で、武器を握って人を刺しはしないだろう。私がこの少年にのぞむことは、悪を憎む心を失わず、早く大人になりたまえ、ということだ。大人は化け物ばかりだよ。君も化け物になるであろうが、大化け物になる素質はないようだ。
第二話 カゴヌケした娘の話 山口公子(二十歳)
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ジミーと知り合ったのは、ホテルに勤務している頃で、二世だと自分でいっていました。私に対する好意を率直に表わし、親切にしてくれました。
二十歳の今日までの私の生活は、何不自由のないものでした。むしろ、両親から甘やかされ、我儘一ぱいに育てられた方だと、自分でも思います。でも、父も母も、私が年頃になると、私の行動に、とても神経質になり、うるさく干渉しはじめました。私が両親を説いて、ホテルに勤めるようになったのも、そんな重苦しい家庭の空気が、いやでたまらず、自由な社会へ出たかったからです。
だから、ジミーに対しては、別に恋愛感情など、なかったのですが、彼との交際は、私には救いでした。すべてが愉しかった。
遊ぶといっても、私はダンスなどできませんでしたから、銀座を歩いたり、映画を見たり、レストランへ入ったりするくらいなものでした。
でも、鎌倉の家には、毎晩きちんと帰りました。父は夜は八時を門限ときめていました。遅れないように注意していましたが、ジミーと交際するようになってからは、その時間をすぎて帰宅することはしば/\ありました。その度に、父はひどく叱ります。不満でした。ちょっと映画を見ても、鎌倉まで帰ると、八時をすぎるのは当り前なんです。
家出したのは九月、その夜もジミーと一しょでした。気がついた時には、とっくに、八時をまわっていました。どうせ叱られる、覚悟をして、遅くまでジミーといました。
家へ着いたのは十時でした、戸がしまっていましたが、灯りはついていました。でも、父も母も、どうしても家へ入れてくれないのです。かっとなって駅へ引返しましたが、行く先のあてといっても、結局、ジミーのホテルよりほかはないのです。
その夜、ホテルで、ジミーにはじめて許しました。仕方がなかったのです。両親への反抗だったかも知れません。それに、彼はとても親切でした。
それっきり、家へは帰りませんでした。一しょに暮しているうちに、ジミーは二世の貿易商だといっていましたが、本名は新仏典儀といゝ、広島に父母もあることがわかってきました。でも、ジミーはお金を沢山もっていたし、本当に愉しい日々でした。なんでも買
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