チュームも構成するし、陶器も焼くし、椅子や本箱のデザインでも、なんでもやる。彼の絵の観念的先駆をなしているものは、実生活の実用ということで、絵という独立したものではない。
日本の小教祖や小弟子の絵や彫刻にも、ピカソの自覚があれば、まだ救われると思う。私が見たものの中でも、これはフロシキか、これは帯の模様か、これはイスか、これはジュウタンか、と思うようなのはタクサンあった。謎をかけようなどという妙な根性は忘れ、専一に実用品の職人になれば、まだしも救われるであろう。すくなくとも、彼らのつくるものは、全く絵ではない。
ラジオに「私は誰でしょう」というのがあるが、二科の謎絵は「私は何でしょう」という第一ヒントを題名でだしているようなものである。おまけに、そのあとが、つづかない。フロシキや帯の模様としてはデザインが見苦しいし、色が汚いし、製作がゾンザイである。
一つとして、良いとこがない。実用品の職人になるにも、一人前になるまでには、まだまだ前途甚だ遠い。
彼らの制作態度は、まさしく教祖的の一語につきているようだ。いたずらに大を狙う。この大が、タダゴトではない。二ツの蕪のようなオッパイを
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