うということは考えられないナ。奈良の大仏の片手にくらべると、こッちの方が大きいや。
「若い人」というのが、ありましたネ。鳥が背のびして、火の見ヤグラへ登って行くように見える。万年筆を立てるには、都合がわるいし、シャッポかけにも具合がわるい。すると、タダのオモチャかな。独立した芸術として、シゲシゲ鑑賞しろたッてムリです。何か実用の役に立たなくちゃア、どうにも存在の意味が解しかねる。もっとも、これを机上に飾って、何故にこれが「若い人」であるか。その謎々を解けという仕組みのオモチャなら智恵の輪よりも難物だ。しかし、智慧の輪はいつかは解けるが、こッちの方は永久に解けそうもないや。
 イサム氏の父君は詩人ヨネ・ノグチだそうである。詩魂脈々として子孫に霊気をつたえているに相違ないが、イサム氏に限らず、当今の超現実的傾向の源流をツラツラたずぬるに、元来詩人の霊気から発生した蜃気楼であると見たのは拙者のヒガメであろうか。
 私がはじめてこの霊気に対面したのは、今から二十三年前にさかのぼる。フランス大詩人ステファン・マラルメ師の「クウ・ド・デ」という詩集を一見したときに、魂魄空中に飛びちり、ほとんど気息
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