る。
 これがそッくり今日の二科会のデンで、もっと、物凄い。カンバスへ本物の靴を張りつけたりしている。
 しかし、この会は線香花火のようにパッと消えて、たちまち跡形もなく失せてしまった。そして、芸術家として他の分野に残った人も、この謎々のような画論には固執しなかったようである。悪夢であった。
 私は終戦後、はじめて今年の二科を見て、邪教に占領されたのは熱海の町だけではないということを痛感したのである。
 独立した芸術品としての絵画はすでにここには殆ど失われている。建築の一部として、壁紙の代用品として見るにしても、安建築にしか向かないし、彫刻は帽子カケや傘立やイスなどに向きそうでいて、それもごく品の悪い安物向きである。まア、一番向くと思ったのは、ビルデングに空襲よけの迷彩を施す場合に適切だと思ったが、すでに空襲というものはレーダーにたよって、視覚にはたよらなくなっているから、全然使い道がない。
 私が目方ハカリキ、上へのッかッて一銭いれると目方が現れる、あのハカリの新式のデザインだなと思った彫刻には「婦人像」と思いがけない題がついている。毀《こわ》れた椅子だナと思ったのには「クチヅケ」という大変な題名がついていましたネ。題名を見破ることは至難中の至難事である。
 題名だけを見て、絵を見ない方が、むしろ多くの美しいイマージュを描くことができる。絵を見るとナンセンスで、ただウンザリしてしまう。
「エピローグ」
 なんのエピローグだか分からないが、フロシキの模様にはやや手頃かも知れないという絵。
「神々の飜訳」
「こまった」(会話に非ず。どちらも題名也)
 イヤ、見せられる方がモットこまる。
「飛ぶ」
 なるほど、飛んでることだけは分る。
「着物だけは返して下さい」
 オレにたのんだってダメだ。そんなこと、この絵はたのんでやしないよ。題だけ勝手にたのんでやがる。メクラのフリをして、どうぞ一文という手はあるが、こッちはもッと悪質という絵。
「煙突食う魚」
「かまれた魚を呑む魚」
 見れば分らんことはない。因果物の見世物小屋の看板向き。
「田園交響楽」
 一人の老農夫の肩に女の子が乗っかってオッパイをだして手をひろげている。腰に猫がのッかり、その上にトンビだかタカがとまりその又頭に小鳥が一羽。イヤハヤ。ベエトオベンの音楽をきいて、芸術がどんなもんだか、考え直してくれないかな。

前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング