らず、芸術に非ず、と断定した。そして今日に至っている。のみならず、今日に於ては、この教祖を邪教の教祖と見なしてすらいるのである。邪教といっても、教祖であるからには、立派な片言隻句も数多く残しているが、邪教であることには変りがない。
 シュルレアリズムというのは、前大戦後にとびだした畸型児であるが、文学の方ではアンドレ・ブルトンなどが旗持ちで、彼はシュルレアリズムのマニフェスト(宣言)というものを書いている。大判の、ちょッと色の変った美本であった。茶の地に、美しいコバルトで題字がぬいてある。それが大そうキレイだったので、私たちの同人雑誌「青い馬」というのへ、そッくり衣裳を拝借したが、日本の印刷ではフランスのような美しいコバルトがでないので、あんまりパッとしなかった。しかし、拝借したのは装釘の衣裳だけでシュルレアリズムにかぶれていたわけではなかった。
 このマニフェストというのはコケオドシの実にツマラヌものであった。彼の代表作には「ナッジャ」という小説があるが、これもツマラナイ小説である。恋人とアイビキに行く荒涼たる海岸の名をアンゴ ANGO という、それだけが私のハラワタにしみた全部であった。フィリップ・スウポオがいくらか小説らしいものを書いているが、シュルレアリストの小説や詩で、後世に残るものは、まず、あるまい。
 彼らはすでに相当な年輩であるが、今日でも、フランスのシュルレアリストは大いに教義をひろめるべく悪戦苦闘しているようである。しかし所詮、彼らは裏街の小さな教祖であって、表通りへ進出し、山上で垂訓するような大教祖には、とてもなれないと私は鑑定している。

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 私は二科会には友人もいるし、好きな画家もいる。戦争以来、終戦後の今日に至るまで展覧会というものには御無沙汰していたので、あの二科会が、今日、こんな妙テコレンな数々の教祖と弟子に占領されようなどとは夢にも考えていなかったのである。
 この前の戦争のあとにも、妙な展覧会が現れたことがあった。たしか、三科、と名乗ったと思う。今日の彫塑をさす意味の三科とちがって、今の二科会の更に進歩的なという意味ではなかったろうか。私は先日、この三科のことを友人にきいてみたが、記憶していない人々が全部である。すると私が会の名を記憶チガイしているのかも知れないが、村山知義氏などがこの会に所属していた筈であ
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