人らしきものがいたり、ミイラのようなのがゴチャゴチャいたり、全然意味をなさぬ色と物体があったり、大部分が、とるにも足らぬコケオドシである。
私が二科を見て最も痛切に思ったことは、審査風景を見たい、という一事であった。どんな理論を述べあって、これらの謎々の絵を入選させたり、落選させたりするか。イヤ、そこは教祖ぞろいのことであるから、黙々と微笑して膝をうち、以心伝心、満場一致するのかも知れん。
「二科三十五人像」といって、二科の三十五人の教祖をズラリと描いた十尺四方もある大作があった。チャンと教祖を祭るにソツはない。おサイセンやお花があがっている代りに努力賞というものが具えてあった。
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「胃袋を大切にしなさい。胃袋を。大学をでる。役人になる。一週五回以上の鯨飲馬食に耐えねばならぬ。頭は必要ではない。中国、ニッポン、朝鮮。主として胃袋のぜい弱なる者は指導者の位置につけない国。頭を使うと胃ブクロへ行く血液がへる。危険。胃ブクロを使うと頭に行く血液がへる。安全。要するに頭を使うと不幸になる。だから、立派な部屋には、いつも胃ブクロがいる」(アサヒグラフ「魚眼レンズ」より)
これはジャーナリズムの諷刺であるが、この結論にしたがって、立派な部屋に胃ブクロの絵を書いているのが、二科の謎々だと思えば、まず間違いはない。
もっと高尚で複雑だという作者があれば、イヤ、それはもっとデタラメで本人もワケが分らんという意味だ、と私は言いかえすツモリなのである。
「魚眼レンズ」の諷刺は、文章によって巧みに戯画を描いてみせている。最後の結論に至って、諷刺の本領を発揮し、巧みに視覚的な幻像を与えている。しかしこれは文章に構成され、最後に視覚に訴えるまでの文章の綾があって、はじめて戯画が生きてくるのだ。これは視覚に訴えるにしても、文章の力であり文章の世界なのである。
試みに、「魚眼レンズ」に最後の結論だけをのせて、「立派な部屋にはいつも胃ブクロがいる」と云ったところで、なんの力もない。諷刺にもならなければ、謎々の問題にもなりやしない。この謎々をとけ、それが文化というものだ、知識というものだ、とでも考える仁があるとすれば、滑稽怪奇ではないか。
ところが、二科の教祖ならびに弟子は、概ね、これをやらかしているのである。
絵は言葉によって語るものではなくて、色によって語るも
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