つもりで全力で泳いで、あとは流すことによって、さらにタイムを短縮できるという説が今まで多かったのである。つまりマーシャルは四百を四分四十三秒ぐらいで泳いでキッパス氏に速すぎると批難されているのだが、日本流に云うと、古橋なら四分三十四五秒で四百を泳がせて、あとを流させようというわけだ。これも一つの方法ではあるが、タイムということを考えて、せり合いを忘れている方法なのである。そして、力の強い選手の追いこみにあうと、負ける性格でもある。アルネ・ボルグのラップタイムはこれ式であった。千五百の最初の百を一分二秒ぐらいで泳いでいる。彼の場合は、二着と一分の差があり、追われる心配はなかったが、彼とマーシャルは体格や泳ぎ方にも、ちょッと似たところがあるようだ。
 古橋を千五百に出さずに二百に出して、全世界のファン待望のマーシャルとの決戦を実現させなかった日本水聯は、対抗競技の意識が強すぎると云って、批難されたが、私はこれも、日本式タイム流のあやまった考えからだと思うのである。彼らの意識下には、水泳はタイムだから、せり合わなくとも、いずれはタイムが証明する、という鷹揚な気持があってのことだろうと思う。

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