ある。田ンボのマンナカの一軒屋の前へ、自家用車のごとくピタリと止る。この料金、三十円。美神アロハの配慮にソツはないのだが、異教徒は酔っぱらうとムヤミに気が大きくなって、翌朝円タクを呪うのである。
 こういう次第で、異教徒どもは離れ去り、ハレムに閑古鳥がなき、三百人の美姫のうち、目ぼしいのは去ってしまった。これ即ち、やがて巷談師の現れて福音を説けばなり、という予言を行うためである。
 私がでかけたとき、美姫は百六十何名に減っていた。あんまりお客がこないので、エエめんどくせえや、というわけか、それとも美姫の新入生でイヴニングが間に合わないのか、美姫の半数ぐらいは、昼の服装で踊っていた。
 四五人の半ソデシャツのアンチャンが美姫を相手に踊っているほかは、美姫は美姫同志で踊っている。他のダンスホールの女の子は、女同志で踊るときには、怒ったような顔をして、なんとなくヤブレカブレのように怖しい様子であるが、ここの美姫はノンビリして、充分にニコヤカである。他のダンスホールのように、男の子がすすみでてくるのを待っている女の子は一人もない。そんなシミッタレた料簡は、このホールには徹底的にないらしい。
 つまり、男の子は見物させておくのだ。否。睨ませておくのだ。ジッと。男の子が踊っちゃ悪いというわけじゃない。踊りたけりゃ、柵をグルグルッとまわって、お金をだして切符を買って女の子をつかまえりゃいいんだけれども、何もそんな面倒して、お金を使って、そんなことしなくッてもいいだろう、という料簡でもあるらしい。美姫たちは男の子が踊りを所望するというようなことに殆ど興味がない様子である。
 しかし、彼女らは楚々と、そして、軽々と、たのしそうに踊っている。あらわな肩に汗がジットリと、ライトに白くてりはえていても、あつそうな顔一つしない。舞台の女優と同じように、芸熱心で、又、明るい。
 なんのために我々はジッと睨んでいなければならぬか。又、彼女らは我々を睨ませておくか。
 我々に恋人を探させるためなのである。さては新式の張り店か、なんて失敬なことを云ってはいかん。どこの世に恋されようという料簡をもたない女の子がいるものですか。一人にも万人にも恋されたいとね。舞台の女は舞台で、散歩の令嬢は路上に於ても、恋されたいことを忘れているわけではないのさ。
 三百人の美姫が、見知らぬ恋人のために、楚々と軽々と、にこやかに踊っているのは、充分に当り前のことである。
 サッサッと、すべりも軽くすすむ。サッサッと。ヒラリ――どうも、こまった。私は誰かさんのように、逆上し、又、亢奮する筈がないのである。しかし、動くということは、いいもんだなア。サッサッと。ヒラリ。
 美姫を選定するのに、顔だけを見て選ぶバカはないです。ジッと立ってるスタイルだけでもいかん。ミス・ニッポンを選ぶたって、歩かせる。歩かせるぐらいじゃ、いかん。ウ、あの女の子は、よく歩くなア。九十五点だ。なさけないなア。ミス・ニッポンの選び方というものは。
 踊らせなければいかん。サササッと。ヒラリ。美の真価は、そのとき、男の目にしみわたるのである。
 先月号に散々悪口を弄したけれども、ストリップ・ショオというものは因果物なのである。あそこでも見物人はジッと睨んでいる。東京パレスの男の子もジッと睨んでいるけれども、ここには持てる者の余裕があるね。持てる者はいいもんだなア。
 ストリップの見物人は、持たざる者の悲しさを最も端的にあらわしている。息をこらし、眼は血走り、手を握ってギュッと拳をヒザに押しつけ、必死必殺、殺気がこもっているよ。そして、約三時間、女の子の裸の姿を睨みぬいたあげく、どうするかというと、椅子から立って振向いて、満員の同志をかきわけて、女の子のいる方の反対側の戸をあけて廊下を歩いて、ボンヤリ外へでるのである。なんたることだ。あんなにキチガイめいて女の子の裸体を睨んだあげく、彼は女の子にお尻を向けてポカンと反対側の戸外へでてボンノクボをさすって、アクビをしているのだ。持たざる者、難民の悲しき姿である。これを因果物というのである。
 東京パレスに於ては、アベコベだ。彼らの睨みは全的であるけれども、福徳円満である。持てる者は、どうしても、そうなる。しかも彼の前にヒラヒラ、サササッ、ヒラリ、蝶かの如くに舞い踊るのはイヴニングの美姫である、射的屋の蔭から襲いかかってシャッポを強奪したり、ムンズと組みつく女レスラーのたぐいではない。
 かの友人、ええと、誰かが何とか云ったッけ。ええと、その人が言ったように、よく揃えたもんだなア。まアね。彼の逆上的な観察にも狂いはあるようだが、まア、揃えるという精神はあるだろう。ダンサーたることを第一に、美というものを念頭においている方針の片鱗はわかるのである。たまたま目下予言者の宿命中で、閑古鳥はなき、美姫は立ち去り、事志とちがって、大いに困っているけれども、美神アロハの大魂胆が全然影を没するということは有りえない。かの人物が言うように、銀座のナンバーワンが二百人集っているというのは逆上的であるけれども、ストリップの踊り子ぐらい、ザラにいるなア。こッちの女の子をハダカにすれば、東京と大阪のストリップ劇場を占領して、オツリがくるほど人材がいるんだぞ。田舎まわりの因果物みたいな変な子はいないんだぞ。昨日までは、もッと、いたんだぞオ。だけど、だんだん、へるんだぞオ。
 美神アロハは復活した。そは実に、持てる者は幸いなるかな、という福音をひろめるためであったのである。
 それは又、ストリップや、射的屋の蔭に腕をさする女レスラーや、今か今かと男の子がさそいにくるのを陰にこもって待ちかまえている壁際のダンサーや、すべて異端の貧しく持たざるものを放逐するためでもあったのである。
 ダンス・ホールは八時半だか九時だか九時半だかに終る。茫漠として、私はその時刻が何時であったか記憶がないが。そのときに時計を見て時刻などを知るという落付きが、それほど賞讃されたことではないのであるな。
 そして、美姫の一人を恋人として、彼女の部屋へ行くのである。
 又、二百人の美姫が全部踊ることはできないから、四ツかの組にわけて、一晩に一組だけ踊る。他のホールに現れざる四分の三に恋人がいるかも知れぬと思う人は、彼女らの部屋の方をさがせばいい。
 彼女らのハレームは五ツの棟にわかれている。各々二階建である。
 さて彼女らの各々の部屋であるが、これが、ちょッと、こまるんだねえ。つまり、これは、一度はハリツケにかかるという宿命を行うためであるから、仕方がないように出来ているのだなア。
 戦争中は二十人か三十人の白ハチマキがねていたと思われる大きな一部屋を、まず、横に二つに分ける。前方と後方に二分するわけだ。前方は、ちょッと喫茶店めいてイス、テーブルがあり、ちょッとした炊事場みたいなものもついている。後方を四ツか五ツに区切って、この広さが二畳半かな、ここが、彼女らの部屋だ。区切れ目がよくて、窓に当った部屋はいいけど、四分の一、ひどいのは五分の一ぐらいしか窓にかからんのが在るんだなア。
 巷談師は予言者の宿命を行うためらしく、五分の一しか窓に当らぬ部屋へ静々と招ぜられたのである。しかし美姫は巷談師がビールをのんでいる間というもの、扇風機よりも休みなくウチワであおぎつづけてくれました。全然辛苦をいとわんのだな。窓ぐらい、無くたって、なんだ! 東京の奴らは知らねえな。ウチワというものがあるんだぞオ。
 ダンスホールと五棟のハレムの間には、飲食店が五ツ六ツ並んでいる。スシ屋というのが一ツ。オシロコ屋というのが二軒だか三軒あったよ。オデン小料理、ビヤホールという男子用のものがなかったのさ。のぞいて歩いたら、オシロコ屋というのにビールがあったよ。オシロコを食わなくっても、チャンとビールをのませてくれた。第一安いや。いくらだと思う。もっとも、ここのビールはのむ場所によって値段がちごう。ダンスホール、ハレム、オシロコ屋、三ツとも違う。ホールで二百五十円、ハレムで三百円、オシロコ屋で二百円だったかな。女の子の部屋でのむのが一番高い。
「オデン屋ぐらい、ないのかな」
 と呟いたら、支配人が、
「ええ、手前どもは、できるだけ優美典雅に、又、できるだけ安直に、美とたわむれていただきますために、男子用の散財店をさけまして、実用品店と、女子必需品店、オシロコ屋でありますな、そういった気分であります。お客様がよけいなことで、気前よくあそばす、又、ギョッとあそばす、いずれも、当会社は、かたく慎しんでおります」
 バカに心がけがよいのである。理髪店が一軒ある。ここらあたりは、気がきいてるな。一人のオヤジサンが熱心に誰かの頭をかっていた。夜、頭をかって、美姫に対面に赴くべきや。朝、頭をかって、何食わぬ顔、会社へ出勤すべきや。ここへ遊びにきた男の子は、どうしてもこの難問題を考えなければならない。
 案内人(文春の誰かさん)はニヤリと笑って言いました。
「それは夜かるべきですよ。オールナイト八百円の時間まで、頭かって待ってるです。オシロコは胃にもたれるし、ビールは高いし、頭かるのは実用的で、全然もうかッとるですから」
 アプレゲールは全然エライよ。

          ★

 私は先月、南雲さんの病院へ入院していた。巷談に東京パレスを、という案はその前からあったので、南雲さんにきいてみた。
「東京パレス御存じですか」
「あれは武蔵新田と同じものだそうですよ」
 返答はアッサリしていた。南雲さんは、武蔵新田診療所長でもある。吉原の吉原病院と同じ性質の診療所だ。
 武蔵新田のパンパン街というものは、私の勇名なりひびいているところで、古い子で私を知らぬパンパンはいない。この入院中、病院の先生たちをムリにひッぱりだして、曾遊《そうゆう》のパンパン街へ酒をのみに行った。パンパンは私を見ると、みんなゲラゲラ笑いだすのである。私がかつて妙テコレンな病気の折に、ここをせッせと巡礼して、他の勇士の為しがたい多情多恨の業績をのこしているからである。向うにしてみれば、奇々怪々、しかし奇特なダンナではあるよ。だから、人気があるな。
 ここは鳩の町などゝは又ちごう。三ツのアパートを改造して、昔は一部屋ごとに一人の女が喫茶店を開業していた。今は喫茶店はやっておらんが、客はアパートの中を歩いて、一部屋ごとの女をながめて巡礼する仕組になっている。
 武蔵新田と東京パレスの似ているところは、そこだけなのである。女はアパートの一室をそっくり占めているから、部屋の点では、武蔵新田の方がいい。しかし、その本質に於ては雲泥の相違があるし、新田は要するに、ただのパンパン街にすぎない。
 東京パレスは、今までのパンパン街と本質的にちごう。昔の吉原にもあったが、京都も伏見|中書島《ちゅうしょじま》など、ちょッとしたダンスホールをそなえた遊廓はかなりあった。しかし娼家にホールが建物としてくッついているというだけで、誰も踊ってやしないし、誰かが踊っていたにしても、在来の娼家の性格を出ているものではなかった。
 東京パレスは、その恋人を選定する道程に於て、娼家的なものがないのである。意識的に、そこに主点をおいて、娼家的なものを取り去っているのだ。
 そこはダンスホールである。バンドもある。よく、きいてみろ。雑音とちがうぞ。ちゃんと曲にきこえるだろ。女はイヴニングをきている。そして、ともかく、一応の容姿の娘(年増は殆どいない)をとりそろえ、ストリップを観賞するように、踊る美女をながめて、恋人を選ぶ仕組なのである。
 ここへくると、ストリップの今の在り方の下らなさがよくわかる。芸のない、助平根性の対象としてのストリップ。裸の女を眺めて、それからモーローと反対側の方角へ劇場をでてしまうマヌケさ加減、東京パレスはアベコベだ、これから共に寝室へ行く目的がハッキリしているし、そして、それがハッキリしていると、彼女がハダカであるよりも、衣裳をつけ、楚々と踊りつつある方が、どれぐらい内容豊富だか分らない。裸体はそれを直接
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