安吾巷談
田園ハレム
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)輿望《よぼう》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伏見|中書島《ちゅうしょじま》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チョロ/\の
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 大戦争のあとというものは何がとびだすか見当がつかない。日本全土の主要都市が焼野原だから、どういう妖怪変化がとびだしても不似合ということはない。
 覚悟はしていたことだから、パンパンやオカマや集団強盗など月並であったが、アロハにはおどろいた。
 なにぶん、アロハというものは、妖怪として登場したものではない。ともかく焼跡にも建設的な気風が起り、いたずらに戦争の惨禍を身につけてデカダンスに身をもちくずしてはいかんというような大方の輿望《よぼう》にこたえて、美とは何ぞや、これである。戦後、美意識の初の出動がアロハであったから、この次には何がでるかと思うと、怖れおののいたのである。
 ストリップなどゝいうものは、着物をぬげば誰でもなれるのだから、創造せられたもの、衣裳とよぶことのできない原始風俗であるけれども、アロハは衣裳であるぞ。アロハは風をきり、銀座の風も、新宿の風も、奥州蛇谷村の風も、みんなアロハにきりまくられた。女の影のうすいこと。パーマネントでこれ対抗につとめても、とても敵ではなかったようだ。
 美神の登場で、こんな唐突なのは歴史に類がなかったかも知れない。概して都心の流行というものは、モガモボにせよ、いくらか当代の最高芸術に心得もあり、寄らば逃げるぞという人種のものであったが、戦後の都心はクリカラモンモンの熱血児に占領されて、日本中、アロハとパンパンに完全にいかれてしまった。
 フォーブなどというのはアトリエの小細工だが、アロハは熱血躍動する美の化身そのものであるぞ。芸術家の創造能力などゝいうものは箱庭のようなものだ、と私がシミジミ嘆いたのは当然だ。巷談師安吾の想像力がタカの知れたものであるのは当然らしいが、ダ・ヴィンチにしたところで、けっしてアロハほど唐突なイマジネーションをめぐらしてはいないのである。原子バクダンでもチャンと筋は通っている。アロハの出現に至っては筋はない。アトリエや研究室のハゲ頭どもは、一撃のもとに脳天をやられ、毛脛をやられ、みんな、おそれ入りましたと言った。
 アロハは突如として消え去《う》せてしまったが、世を忍び、地下へくぐったにすぎない。美神アロハは生きている。否、生きているどころか、指令を発し、現に美のもろもろはアロハの大きな手におさえられているのである。惑星アロハをめぐる小遊星のタップダンス程度なのが今の世の流行であり芸術だ。それぐらいアロハは大きい。
 フジタが河童アタマでモンマルトルの奇襲作戦に成功をおさめても、モンマルトルが河童アタマになったわけではないのである。わずかに東京の大辻司郎の頭がそうなったにすぎないほど感化力は弱小であった。フジタほどの芸術家が日夜に想をねり、たくみにたくんで編みだした創作も、ただ彼自身のポートレートをかざるだけのものにすぎない。だから、芸術家の如きはダメだ。彼らの傑作もたかが小遊星である。流星ですらない。アロハは恒星であるぞ。
 美神アロハの登場は現世を暴力によって一撃した。それをきたアンチャンの腕ッ節のせいではなくて、着想の革命的な新風によってだ。美神アロハの創世記。そして爾後の芸術は、新恒星をめぐって歩きだす。仕方がない。アロハは地下へくぐったが、決して死なないのである。
 諸君は敵をあなどっているようだ。しかし諸君、地下へくぐったものを甘く見てはいかん。徳球ごときチョロ/\のホーキ星とは質がちごう。とてもダメなんだ。ぼくはもうシャッポをぬいで、敵意をサラリとすてている。それはぼくがかねて美の新しい衣裳について想をねるところがあったから、敵の抜群の実力を見ぬく神速にめぐまれていたのである。一時抗戦したが、すぐ白旗をかかげた。謀略的敗退とちごう。私の心境は明鏡止水である。
 アロハは完全に地下へくぐった。銀座を歩いてみたまえ。あれほど抜群であったG・Tの兵隊服が全然目をひかなくなったではないか。男女いずれも程よく美の常識を身につけ、文化というものの必然の相を身につけて、げにうるわしく破綻がない。特にダブルという洋服をきて、単原色のネクタイをクビにはためかす青年紳士は三年前にアロハをきていた人たちである。美神アロハの暴力革命的な荒々しい躍動は、うかがう由もなくなったのだ。
 私はしかし美神アロハの実力、潜勢力というものを信じていた。必ず、やる。今度やるときは、タダではすまんぞ。
 地下へくぐったとみせて、いたるところに五列を忍ばせてしまった。ダブルのアンチャンなどは、むしろ五列でもなんでもなく、単に無邪気なマネキンにすぎなかったのだ。
 五列は、どこにいるか。実に、驚くべし。美神アロハに激しく敵対したもの、それが全て、実は五列であったのだ。見たまえ。共産党は、とても、こうはいかぬ。自由党が共産党の五列であるというようなことは、断乎として有りえないのである。
 見たまえ。今にアロハは徐々に地下から首をだす。しかし、諸君には分らない。ストリップ? バカな! あんなものは偉大なアロハには無関係だ。彼が復活するまでの空白をうめているにすぎないのである。
 アロハが徐々に顔をだすとき、その覆面を見破ることができるのは、私だけなのである。私の指し示す時をまて、私はこういって、カストリどもに訓示をたれた。
「いいか。諸君。アロハが復活するときは、決してアロハをきて現れはしないぞ。燕尾服やタキシードをきている。諸君のノスタルジイと合作して現れてくるのだ。つまり、諸君はすでに彼の共力者(共犯者とは言わん。アロハは犯罪ではない)であるから。それゆえ諸君は、諸君の中へ没したアロハの姿を見ぬくことができないのである。アーメン」
 地にくぐること満二年。アロハはそろそろ復活のキザシを示しはじめた。私はそれを認めたのである。
 私の予言は正しかった。彼は完全にアロハをぬいでいた。なつかしのノスタルジイと合作し、いとも優美な生活芸術の善美結構つくせる姿を示していたのである。
 予言にしたがって、諸君をそこへ案内するときが来たわけだ。
 小岩というところは何県に属しているか? 千葉県か? 東京都か? ここがむつかしい。十人のうち、五人まちがう。小岩? そうか。あすこにはオハグロドブがあるぞ。バラバラ事件、首なし屍体、そんなのがあると、みんな小岩とちごうか? わかった! あれは警視庁が捜査する。東京都だ! 小岩はお岩に似ているせいか、東京の人間は犯罪によって小岩を記憶しているようである。実は東京都小岩である。美神アロハの復活は、実にこの地を選んで、行われた。
 ここは、又、雨がふると、洪水になる。一つとして良いとこがない。そこが曲者なのだ。これが先ず銀座に現れたというのでは、全然センスがないのである。
 その名は、東京パレス!

          ★

 私たち(この同行者の姓名をかくと処罰される)を乗せた自動車は新小岩駅前の繁華街をうろうろしている。運転手は首をひねって、
「たしか、この辺のはずだが」
「君、知らないのか」
「え? ええ。しかし、ここが賑やかな中心地だから、この辺に……」
「とんでもない!」
 私は叫んだ。
「東京パレスは広茫たる田ンボの中にタッタ一軒あるんだよ」
 私は見たわけではない。私は友だち(これも姓名をかくと処罰される)に東京パレスの情景を微に入り細にわたり叙述をきかされているのだ。ギャク/\ゲロ/\という一面蛙の鳴き声を、自動車の速力でものの三分もきいて走らねばならないほど、見はるかす田ンボの中にポツンとある。と、そこに繰りひらかれる絵巻物こそは。まて、まて。もッと、落付いて、語りましょう。
 私はこの殿堂へふみこんだとき、
「ハハア。これは兵営のあとだな」
 と、ひとり合点をした。ひろびろと暮れゆく田ンボ。これぞ兵舎をかこむ練兵場、飛行場のあとである。私がそう思うのもムリがない。この建物は一聯隊の兵舎、銃器庫、聯隊司令部、講堂などに相応し、それ以下のものではない。離れたところに、ちゃんと営倉の建物も残っているではないか。ところが、これが大マチガイで、案内者曰く、
「ちがいますよ。これは精工舎という時計工場の寮のあとですよ」
「ハア。田ンボのマンナカに工場というのはきいたことがあるけれども、寮とは妙だ。工場がないじゃないですか」
「工場ははるか亀戸にあるそうです。戦時中、ここに何万という(嘘ツケ)工員が白ハチマキをして、住んでおりまして、講堂でノリトをあげて、それより木銃をかついで隊伍堂々工場へ駈足いたしましたそうで」
 寮とは妙だ。見はるかす田ンボのまんなかじゃ、白ハチマキの工員さんは、浩然の気を養うに手もなく、もっぱら精神修養につとめなければならなかったろう。戦争の匂いがプンプンする。
 それが今や東京パレスである。
 さて、東京パレスとは何ものであるか。
 まず、講堂ならびに銃器庫とおぼしきあとが、ダンスホールである。この見物料五十円。ティケツ十枚百五十円(このとき見物料不要)。
 ホールは広大にして汚い。正面に一段高く七名のバンドが陣どり、それに相対して見物人の席がある。見物席は駅のプラットホームと待合室を区切る柵のようなもので仕切られている。
 私がこの柵をまたごうとしたら、子供の整理員が、
「イケマセン。グルッとまわりなさい。ホールの礼儀を守って下さい」
 叱ラレマシタ。
 すでに推理されたと思うが、見物人が踊るには不都合にできている。どうせ踊りやしないんだろう、と先方で一人ギメにしているらしい風情なのである。テーブルもイスもあってビールをのもうと思えば取りよせてのめる仕掛だが、ボーイとおぼしき風態の人物がいるわけではない。子供はいるが、彼は戦争中の服装で、誰かがビールをのむことに興味をもっていないようだ。イスとテーブルも兵舎的実用品で、席へつけば一同が実用的な心構えになることを慫慂《しょうよう》されているようである。警官の臨観席の坐り心持であった。イスとテーブルが、私のお尻からささやいて、きびしく命令している。
「よく睨め。ジッと睨め」
 そこで私は睨まなければならんのである。
 私の眼前には三百人の美姫が楚々として踊っている。私に東京パレスを精密に叙述して一見をすすめた友人(頭に特徴のある人物)は、こう教えた。
「そこには二百人の美姫がイヴニングをきて踊っているです。イヴニング! しかして、全部、美人である! よく揃えたなア。彼女ら二百人の三分の二は、東京のマンナカ、と云えば銀座、銀座のダンスホールの美人とよばれるダンサーに劣るものではないですぞ。ぜんぜん見劣りしないね。むしろ、より美しきものである。そのフェースに於て、スタイルに於て、銀座のダンサーだにすらも、かの二百名の美姫にくらぶれば、ああ、だにすらも」
 彼は刺戟性の事物に近づくことが適しない人物のようだ。前後不覚に亢奮しやすい。
 しかし彼の腹心(彼には腹心がある)が、彼のために、こう弁護した。
「彼がここへ来たのは一カ月前です。そのときは、たしかに美人が多かったらしいです。時の一行は概ね逆上的に心酔しておったです。ぼくも、その時、来ればよかったなア」
 予言者は世に容れられないものである。美神アロハも一応予言者ぶったフリをしてみたかったのだ。そこには使徒巷談師というものが現れて、やがてその福音を説くことが定められていたせいらしい。
 一時世に容れられなかったのだ。というのは田ンボのマンナカの一軒屋という高貴の風俗が異教徒どもに分らなかったからである。彼らは銀座にのんだくれて、円タクをよびとめる。
「小岩! いくら」
「千円」
「八百円にまけろ」
 畜生! 円タク代、八百円か! 翌日、恨みをむすんで帰る。オノレ、円タク。異教徒は恨み深い。
 東京駅前から市川行というバスにのるので
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