見るよりも、衣裳や動きによってその美しさを想像せしめるように工夫されたのを見る方が、心ゆたかであるし、たのしいものだ。
見物中の男の子は、恋人の色々の秘密を想像し、その一々にまさしく恋人としての愛情をいだくことができる。そして、二百の美姫たちは彼女らが踊りつつあるときは美姫であってパンパンではない。ともかく、東京パレスというところは、そこを狙っているのである。去年はもッと良かったんだア。昨日だって、もっと、よかったぞオ。
それで、金が高ければ当り前の話で面白おかしくもないけれども、さて美姫が恋人となり、ホールが終って、彼女らがパンパンとなると、とたんに彼女らの部屋は窓の小さな犬小屋となり、何から何まで、安直なのである。この精神が甚だよろしい。
在来のパンパンは相当な金をまきあげられた上、女とねかされるというだけで、露骨で殺風景で、この道に一番大切な、恋人的な情趣をもつ余地がない。センチメンタルなダンナ方は老いも若きも、この荒涼風なまぐさしという雰囲気にはつきあえないに相違ない。
芸者というのは踊るけれども、あの日本舞踊の動きというものは現代のセンスに肉体の美を感じさせはしなく、彼女らの唄うものが、益々現代の美から距離をつくってしもう。
パンパンというものが在る以上は、もっと気のきいた、現代のセンスに直接な在り方がなければならぬ筈であった。東京パレスはそれに応えて、革命的な新風をおこしたのである。その上、ありきたりのパンパンよりも安直であるという大精神に於ては、窓の小さな犬小屋の非をつぐなって余りあるところ甚大な、一大業績だといわなければならぬ。美神アロハは実力の一端を示したのである。尚かつ世にいれられず、受難四年、閑古鳥がないたというのが愉快である。しかし、そうだろうな。東京から円タクをねぎって八百円かかる田ンボのマンナカの一軒屋へ、美姫二百人楚々と軽やかに踊らせた魂胆というものは、分るようでもあるし、全然分らないようでもある。よく考えると、分らんわ。
私たちは見物席のメーンテーブルにドッカと腰かけ、ビールをのみ、美女をにらんでいた。
私は従卒を三人つれていた。二人は志願兵であるが、一人は委託された教育補充兵で、ある人物にたのまれたのである。
「今日はちょッと難題をたのみますがな。今やわが社におきましては虫気のつかない困った人物がおりまして、ええッと、
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