は、私の勇名なりひびいているところで、古い子で私を知らぬパンパンはいない。この入院中、病院の先生たちをムリにひッぱりだして、曾遊《そうゆう》のパンパン街へ酒をのみに行った。パンパンは私を見ると、みんなゲラゲラ笑いだすのである。私がかつて妙テコレンな病気の折に、ここをせッせと巡礼して、他の勇士の為しがたい多情多恨の業績をのこしているからである。向うにしてみれば、奇々怪々、しかし奇特なダンナではあるよ。だから、人気があるな。
ここは鳩の町などゝは又ちごう。三ツのアパートを改造して、昔は一部屋ごとに一人の女が喫茶店を開業していた。今は喫茶店はやっておらんが、客はアパートの中を歩いて、一部屋ごとの女をながめて巡礼する仕組になっている。
武蔵新田と東京パレスの似ているところは、そこだけなのである。女はアパートの一室をそっくり占めているから、部屋の点では、武蔵新田の方がいい。しかし、その本質に於ては雲泥の相違があるし、新田は要するに、ただのパンパン街にすぎない。
東京パレスは、今までのパンパン街と本質的にちごう。昔の吉原にもあったが、京都も伏見|中書島《ちゅうしょじま》など、ちょッとしたダンスホールをそなえた遊廓はかなりあった。しかし娼家にホールが建物としてくッついているというだけで、誰も踊ってやしないし、誰かが踊っていたにしても、在来の娼家の性格を出ているものではなかった。
東京パレスは、その恋人を選定する道程に於て、娼家的なものがないのである。意識的に、そこに主点をおいて、娼家的なものを取り去っているのだ。
そこはダンスホールである。バンドもある。よく、きいてみろ。雑音とちがうぞ。ちゃんと曲にきこえるだろ。女はイヴニングをきている。そして、ともかく、一応の容姿の娘(年増は殆どいない)をとりそろえ、ストリップを観賞するように、踊る美女をながめて、恋人を選ぶ仕組なのである。
ここへくると、ストリップの今の在り方の下らなさがよくわかる。芸のない、助平根性の対象としてのストリップ。裸の女を眺めて、それからモーローと反対側の方角へ劇場をでてしまうマヌケさ加減、東京パレスはアベコベだ、これから共に寝室へ行く目的がハッキリしているし、そして、それがハッキリしていると、彼女がハダカであるよりも、衣裳をつけ、楚々と踊りつつある方が、どれぐらい内容豊富だか分らない。裸体はそれを直接
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